梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・ひばり(5)

    夢もうつつもまぼろしも、一枚の紙の重さほどの説得力すらすでに消え失せ、あげくのはてに私みずからの存在証明にあけくれる日々のためにこそ流れ行く玉川上水の鉛色の水でさえ、どこかよそよそしく、はやくも女はサンドイッチを入れた信玄袋をかかえて、どこか素敵な木陰はないかしら、だが私は絶望する必要はない。めざす羽村の取入口まで、まだ十キロはあるはずだ。
「もっとゆっくりあるきましょうよ」
私と女が歩けば歩くほど距離が開くのは、あながち私と女という既製の関係とはいいきれず、むしろあえていうなら、それは自然のなりゆきというものであり、宿命であり運命に他ならぬが、女も私も人一倍、例の運命論という代物が嫌いであった。だが、それが屈辱でなくて何であろう。昨日、ベットの中で女の寝息をうかがったとき、私は今日のすべてを的確に予想していたのだ。夢は幕間狂言に過ぎず、だがそれゆえに今日を昨日とつなげてはならない。私は私という亡霊から脱け出るために玉川上水を遡るのではない。したがって私の目的地は、あくまで羽村の取入口なのであり、やがて多摩川から奥多摩の渓流を上って、水蒸気が天へと舞い上がるという一つの逆行もしくは反措定、そんなことには何の興味もない。
(1967.5.10)