梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・ひばり(3)

 私が思わず居間の方をふりかえると、父はそこに集まった客の間から間へと、何事も無かったようにニコニコと、酒を注いで回っていた。これは何かの間違いではあるまいか。私としては、そうとしか考えようがなかった。だが、もし間違いであればなおさらのこと、私は警察に出頭しなければならない。とはいえ、逮捕令状もなく、警察官も来ないのに、電話一本でのこのこ出かけていくのは、おかしなことだ。私は、だが一つの不安にかられた。おのれの過去について自信がなかったためだ。
「で、容疑はいったい何だというんです」
「1960年の5月19日に“婦女暴行”したというのよ」
「馬鹿な」
 あっけにとられて、開いた口がくしゃみによってほぐれたその顔が、老女につききりの、それまでそこにいたにもかかわらず、私は彼女に気づかなかったのだが、女中の顔とはちあわせして、ニヤニヤ笑ってしまった。だがしかし、ひるがえって考えれば、私の母があんなに恐怖したのも、父がその苦しみを忘れるために、今まで絶っていた酒を注いで回っているのも、警察の容疑をそのまま事実として信じて疑わないからに他ならない。そして酒宴に集まった人々、それはあるは私の知己であり、あるは恩師であるというように、すべからく血の通った交際をしてきた人達であったにもかかわらず、誰ひとりとして私への容疑を否定してくれる人はいなかった。いってしまえば、それは私一人を除いて、すでに既成事実なのであり、というよりその容疑が事実か否かということよりもむしろ、容疑がかけられたという一つの事実、彼等はそのことの重みの方を私に問いかけていたのだ。
 私は警察に出頭した。
(1967.5.10)