梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・ひばり(4)

・・・あなたは1960年6月15日の正午、どこで何をしていましたか。
漠然とした不安が、一つの焦りとなって私を震撼させた。一つの真実ではなく、もう一つの事実を要求する取調官の問いかけは、はたして私自身の存在にとって致命的なものであったろうか。
・・・よくおぼえておりません。
そういえば、酒宴の人々の猜疑の目もそれと同質のものであった。私にはアリバイがあるのか、否か。ともかくも、私にとって“婦女暴行”という行為ほど無縁なものはなさそうだ。だがしかし、依然として過去に対して自信のないことに変わりはない。
 私は警察を出るとき、弁護士を頼もうと思った。私の容疑は“婦女暴行”に“殺人”が加わっていた。一般的にいって、それは自然のなりゆきだが、私は事実、“殺人”の容疑をおそれていたのだ。記憶によれば、私は人を殺してない。だがその記憶という代物こそあてにならないのだ。おぼえのないまま、私は人を殺したかもしれない。案の定、警察の玄関で、一人の革命家が私の弾劾演説をしていたのだ。私は観念した。弁護士など誰が頼むものか。オレはオレみずからの弁護人たり得なければならぬ。だがその居直りのいやらしさに思わず反吐が出て、にもかかわらず甲斐ない努力のむなしさに美的感動をおぼえるほどの転向心理に半ば恍惚としながら、涙を流してその場に立ち尽くしたのだ。
【補説】私が殺したのは、「樺美智子」という名の女子大生だったかもしれない。
(1967.5.10)