梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・ひばり(2)

 京の夢、大阪の夢。私は昨日、私の生活の大団円の夢をみた。そのとき、私はすでに私ではなく、行きずりの生活でめぐりあった人々のすべてと最後の酒宴を共にする中で、恍惚として感謝の涙を流していた。だが例によって、一抹の不安の兆しにあたりを見回すと、そうだ母親がわりの、今は老いさらばえた醜女が土間の隅で、身をうちふるわせているのだ。「どうしたの」
やさしく、さしのべられる手はもはや私の手ではなく、だがその手に力いっぱいの力をこめて、私は老女を抱きしめた。
「なんでもないの」
「なんでもないことはないでしょう。話せばすぐに楽になります」
「こんな時に。本当になんでもないのよ」
チリチリチリチリ、土間の柱の電話が鳴るやいなや、老女はそれに飛びついた。
「もしもし」
一瞬、老女の顔は、恐怖に黄色くひきつり、だが声は押し殺すようにどこまでも低く、それが彼女の生活の強靭さをしのばせた。そしてそれを支えるものが、他ならぬ私への愛であることを知ったとき、私はおのれのふがいなさを恥じずにはいられなかった。
「いいえ、そんな方はおりません。いないといったらいないんです。失礼じゃありませんか。突然、名も告げずにそんなことを言ったりして」
 老女は、いや私の母は受話器を置いた。だがその手は思わずもつれ、受話器はガチャンと柱に宙ぶらりんになって大きくゆれた。私は事の重大さに、初めて気がついたのだ。
「いったいどうしたのです。お母さん、誰からの電話だったんですか。教えてください」
老女は、あきらめたように涙声で言った。
「取調べがあるんですって。警察からなのよ」
私は驚いて言った。
「いったい、誰を取り調べるんです」
「・・・あなたなのよ。お父さんも行ってこいとおっしゃってたわ」
(1967.5.10)