梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・29

《二 単語における詞・辞の分類とその分類基礎》
イ 詞・辞の過程的構造形式
 単語は、その過程的形式の中に重要な差異を認めることができる。
一 概念過程を含む形式
二 概念過程を含まない形式
 一は、表現の素材を、いったん客体化し、概念化してこれを音声によって表現する。「山」「川」「犬」「走る」等である。また主観的な感情を客体化し、概念化すれば「うれしい」「悲しい」「喜ぶ」「怒る」等と表すことができる。これらの語を私は仮に概念語と名づける。古くは詞といわれたもので、鈴木朗はこれを「物事をさしあらわしたもの」であると説明した。概念語は、思想内容中の客観界をもっぱら表現するものである。
 二は、観念内容の直接的な表現である。「否定」「打ち消し」等の語は、概念過程を経て表現されたものだが、「ず」「じ」は直接的表現であり、観念内容をさし表したものではない。同様に「推量」「推しはかる」に対して「む」、「疑問」「疑い」に対して「や」「「か」等は皆、直接的表現の語である。私はこれを観念語と名づける。古くは辞と呼ばれ、鈴木朗はこれを心の声であると説明している。それは客体界に対する主体的なものを表現するものである。助詞、助動詞、感動詞がこれに入る。
 今後は、一の概念語は詞(シあるいはコトバ)、二の観念語は辞(ジあるいはテニヲハ)という名称を使うことにする。
 鈴木朗は、体の詞、作用の詞、形状の詞の三者に対して、てにをは(助詞、助動詞)を次のように説明している。
 ○三種の詞            ○てにをは
一 さす所あり           さす所なし
二 詞なり             声なり
三 物事をさし顕して詞となり    その詞につける心の声なり
四 詞は玉のごとく         緒のごとし
五 詞は器のごとく         それを使い動かす手のごとし
六 詞はてにをはならでは働かず   詞ならではつく所なし


 この四五六は、てにをはの、語としての機能を述べており、一二三は語の性質を説明したものである。さす所とは、概念化客体化の意味であり、心の声とは観念内容の直接的表現を意味すると解さなければならない。私は今、朗の説を正しいとは思わないが、国語学史を調査してその学説を吟味した結果、彼の到達した思想が、泰西の言語学を超えていることに驚嘆し、そこに啓発されて彼の学説の展開を試みたのである。
 語は表現過程それ自体なので、表現過程の相違は、語の性質上の相違である。従って、語を詞と辞に二大別することは、語の最も根本的な性質に基づく分類である。語それ自体に分類基準を求めた分類である。語における一切の他の分類は、皆この二大別の下位分類と見るべきである。
 詞および辞によって表現される心的内容は、これを素材として見れば、その間に相違がない。しかし、概念過程を経る詞が表すものは、主体に対立する一切の客体界の事物はいうまでもなく、主体的な情意もこれを客体化することによってすべて詞として表現できる。「うれしい」「怒る」等がそれである。これに反して、辞によって表現されるものは、主体的なものの直接的表現だから、それは言語主体の主観に属する判断、情緒、欲求等に限られている。話し手の意識に関することだけしか表現できないのである。たとえば「うれしい」という詞は、主観的な情緒に関するものだが、それが概念過程を経た表現であるがゆえに「彼はうれしい」と、第三者のことに関しても表現することができる。ところが、推量辞の「む」は「花咲かむ」という風に、言語主体の推量は表現できても、第三者の推量は表せない。「彼行かむ」といっても、推量しているのは「彼」ではなく、言語主体である「我」なのである。辞によって表現されるものは、主体それ自体であって、素材ではないといった方が厳密に近い。素材として把握される時、それは言語主体に対立しているものになる。
 言語過程図に従って、詞と辞を図示すると、以下のようになる。
○詞の過程的構造形式
・起点(具体的事物あるいは表象)→・第一次過程(概念)→・第二次過程(聴覚映像)→・第三次過程(音声)
○辞の過程的構造形式
・起点(言語主体に属する判断、情緒、欲求等)→・第二次過程(聴覚映像)→・第三次過程(音声)
 概念過程を経ずに、直接に音声に表現される。この最も明らかな例は、感嘆詞である。「ああ」「おや」「ねえ」「よう」等は、すべて主体的なものの直接的な表現である。多くの感嘆詞は自然の叫声に類するもので、まだこれを言語の体系中に加えることはできないが、そのあるもの、例えば「ね」と「暑いね」、「よ」と「遊ぼうよ」等を比較してみれば、その密接な関係を知ることができる。 
 詞と辞との分類は、全く過程的形式に基づくものであり、それゆえに、それは単語の基づく分類であるということができる。この単語分類を出発点として、接尾語と助詞助動詞の限界、敬語の本質、用字法の体系、文の本質の説明等が可能になるが、そられについては後述する。


【感想】
 著者は、単語を、一・概念過程を含む形式、二・概念過程を含まない形式に大別する。
一は素材(事物、事象、表象、心象等)を主体(話し手)が客体化、概念化して表す語であり、「山」「川」「走る」「うれしい」などの語が相当し、これを詞と称する。
二は、主体の意識(判断、情緒、欲求等)を、そのまま音声で表す語であり、「ああ」「おや」「・・・か」「・・・よ」などの語が相当し、これを辞と称する。
 この分類法は古くは藤原定家、近世でも本居宣長、その門下である鈴木朗らによって伝統的に引き継がれてきたが、明治以後の「文明開化」(西洋文明の導入)により、ほとんど省みられなくなった、ということである。
 なるほど、私自身が学校で学んだ国文法では、単語をそれ自身で文節を作れる語(自立語)と、それ自身では文節を作れない語(付属語)に分類していた。しかし、自立語と付属語の間にある「過程的構造形式」の差異については説明がなかった。その過程において概念過程を含むか、主体の意識を直接音声で表現したものか、といった違いは、文節を作れるか否かといった違いとは次元が異なる重要な違いであるということが、よく分かった。 主体(話し手)が推量して「彼行かむ」という時、「行くだろう」と思っているのは彼ではなく、私の方だという説明もわかりやすくたいそう面白かった。
(2017.9.29)

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・28

《第三章 文法論》
《一 言語における単位的なもの ・・・単語と文・・・》
  言語研究で、単語が言語の単位であるとしばしばいわれるが、単位とはどのような事実をいうのかを考えてみる必要がある。しかし、単位とは何であるかに答えることは容易ではない。一般に使用される単位の概念には以下の区別がある。
一 量的単位 三尺、五升という時の尺、升。与えられた量を分割するための基本量の意味である。(厳密にいえば、単位は量的単位に限定される)
二 質的単位 三冊、五人という時の冊、人。与えられた個物を計量する基本的な質的統一体を指す。量に関係なく質にのみ関係する。
三 原子としての単位
 原子は、自然科学において物質を分析し、その究竟において到達する分析不可能な単元の概念である。この原子的単位の概念は、単位それ自体の存在形式は、量的単位、質的単位と同一だが、前二者はあらかじめ措定されたものであるのに対して、原子的単位は、分析の究竟において発見されるものであるという単位認定の手段において著しい相違が認められる。
 言語研究において、もし単位の名称を使うなら、それはどのようなものとして定義すべきかはしばらく問題外として、単位の概念が、今日、自然科学的原子的単位の意味で使われることは、妥当であるか否かを検討する。
・ソシュールは言語の単位を、聴覚映像と概念が連合した「言語」(ラング)に求め、「言語」(ラング)で言語現象の全般を説明しようとしたが、これは自然科学における原子論の考え方を模したものである。
・山田孝雄博士は「単位とは分解を施すことを前提とした観念で、その分解の極限の地位をさすものなり」(「日本文法学概論」)と述べているが、その単位は、原子的単位の意味で使われたことは明らかである。
 単位認定の方法は、このような原子的単位観を批判することによって、解決の道が見出せる。分析の究竟において発見されるといわれる単位としての単語は、むしろ分析以前にすでに認定された概念として考えられている。ソシュールが「一つの音列は、それが観念の支物とならぬ限り、言語的とはならない。音列それだけでは生理的研究の資料以上には出ないのである」(「言語学原論」)と述べていることからも明らかなように、言語的単位の摘出には、《言語的》であることを必要条件としているのである。  
 山田氏は「単語とは、語として分解の極に達した単位にして、ある観念を表明して談話文章の構造の直接の材料たるものなり」(「日本文法講義」)と述べているが。《語として分解》といわれていることは、分析以前に、語の概念が認定されていなくては不可能である。単語は、分析を行うと行わざるとにかかわらず、すでにあらかじめ措定された概念であって、聴覚映像と概念が連合した質的統一体であり、質的単位であるということができる。
 言語における語の単位は、個物を計量するための基本となる質的統一体であり、それ自身一体である一全体でなければならない。従って、単語は、言語研究において、研究者の焦点に結像された全一体であり、言語研究の出発点であると同時に、その本質の究明は終極の課題でもある。
 単語を言語の単位と称することができるとすれば、「文」もまた言語の単位として考えられなければならない。文は単語の集合、単語の連結ではなく、文が文となるためには、それ自身を一体とし、統一体とする条件が必要である。文の概念については後述するが、要するに、文は、主観客観が合一し、まとまった思想の表現であり、詞と辞の結合であることを第一の条件とし、文はまた完結した思想の表現であり、言語的には終止する言語形式を必要とすることを第二の条件とする。文が一つの統一体であることは、単語が一つの統一体であることと等しいが、この二つの統一体としての単位の間には、種々な関係が存在し、言語研究の重要な課題を含んでいる。文と単語との関係は、体系的組織を持つ叢書と、その一部である一巻の書籍の関係に比べることができる。叢書はそれ自身一体たるべき統一原理を持つ全体であると同時に、その一部一巻の書籍もまた同様にそれ自身の統一原理を持つ全体である。一つの全体に対して、これはその下位全体の位置に立つものである。文と単語とは、言語において与えられた二つの全体であり、統一体であり、その意味で両者を言語の単位であるということができる。
 単語は言語の質的単位である。質的単位とは、主体意識において認定された一つの全体概念であり、統一体の概念である。
 言語過程観に立てば、言語をあるがままの存在として、主体的経験として把握する。単位としての単語の本質を、主体的な言語的経験において規定しようとする。我々の言語の経験は、心的内容aを、音声bあるいは文字cにまで表現する過程、あるいは文字cあるいは音声bより心的内容aを喚起する過程の経験によってはじめて成立する。一つの語は、このような経験が一回的過程として成立した場合に経験される。私は単語の本質をこのような一回的過程として規定する。
 言語過程説による単語の規定は、語の本質に基準を求めることだが、甲によって単語として経験されたものが、乙には単語の結合すなわち複合語として経験されることがあることに注意が必要である。このことは、時代を経、土地を隔てるならば当然起こり得ることであり、過去において二単語であったものが現今一単語として経験されるのは自然の事実である。同一時代における同一社会の単語の経験がほぼ統一されるのは、我々の言語経験が、環境によって統一される結果であって、客観的に決定された単語が存在するからではない。今日「ひのき」が単一概念(檜)を喚起するとしても、古くは「松・の・木」「杉・の・木」などと並んで「火・の・木」として考えられいたかもしれない。「榊」「柾」も同様に今日では一単語だが、古くは「さか・木」「まさ・木」であった。このように分析的に考えられるということは、古代人の言語経験に即していわれることである。
 誤解が生じないように一言付け加える。
「梅の花」「川の水」などは、思想上各一単位であるという考え方である。 
イ 三角形
ロ 三線によって囲まれた図形
イとロは共に同一図形を言い表したものだから、イロの思想内容は共に三角形という図形そのものであると考えることは速断である。ロの場合では、「三線によって囲まれた」と限定する限定作用と、限定のために分析された「三線」「囲まれる」等の概念がある。ロに表現された思想内容は、イと同一であるとはいえない複雑な内容を持ったものである。同様に「梅の花」には「花」を限定するために分析された概念と限定作用の表現を伴うので、思想内容としては、「梅」「の」「花」の三単位で成立し、それぞれが音声に表現されるがゆえに、三回の過程の結合、つまり三単語であるといわなければならない。以上の例とは逆の場合だが「寒い」という表現が、もし判断の表現ならば、この表現は「寒い」という概念と同時に判断を累加しているので、これは単語ではなく、単語の結合した文だと考えなくてはならない。「寒い」が単語と考えられる場合は、それが単純に概念のみを表現した時である。辞書の見出される場合がそうである。
 「円は丸い」という表現における思想を、「丸い円」そのものであるとはいえないことで明らかである。「梅の花」「川の水」は、各々一概念を表したものとはいえない。
 以上の理は、構成的言語観によっては理解し難いことであり、過程的言語観に立って、はじめて容易に理解できることであると思う。
 イ、ロの場合を仮に図式で表すなら、次のようになる。概念単位を大文字、音声を小文字で示すとすれば・・・。
イ A→a                                《A》
 左は「三角形」という語の一回的過程を表し、右《》はそれが一単位の語であることを示す。


     B→b
ロ  A↗                                《(B)C》
   ↘
     C→c


 左は「三線によって囲まれた図形」という表現(b・c)が、Aそのものを表すのではなく、Aの分析されたB、Cを表すものであること、従ってそこには二回以上の過程が存在することを示し、右《》は二単語あるいはそれ以上のものであることを示す。


 複合語は、その表現される概念はAであるが、これを表現する手段として、概念Aが分析されたBおよびCを、それに対応する音声bおよびcで表現しようとしたものである。これを図示すると次のようになる。


     B→b↘
ハ  A↗     a(b c)      《A(b・c)》
    ↘    
     C→c↗


 分析されたBおよびCは、結局Aを表す手段に過ぎないので、ロが分析された思想そのものを表現するのとは相違する。aがAを表すという点で単位的な単語といえるが、その中に分析された単語bおよびcを包摂しているという点で、複合する単語、すなわち複合語あるいは合成語といえるのである。換言すれば、それは分析そのものを表現するのが目的ではなく、分析することによって、分析以前のものを表現しようとするのである。
 言語はしばしばロの分析的表現から出発し、ハの段階を経て、イの単純な過程に返ることがある。


    B→b↘
  A↗     A   《B C》→《B C》→《A》
   ↘ C→c↗  


 「理想」を象徴化して、分析的に「青い花」と表現し、やがて「青い花」が理想の名称となる時、「青い花」は完全に一単語である。しかも、なおそこに二つの概念が主体的に意識されるならば、それは複合語、合成語の範囲に止まっているのである。
 源氏物語の人物「光る君」「匂う宮」「薫る君」の名称は、源氏物語の本文では「譬え
む方なく美しげなるを、世の人光る君と聞こゆ」「例の世の人は、匂う兵部卿、薫る中将と聞きにくく云い続けて」と説明されている。命名の当初は「光る処の君」「匂う処の兵部卿」という意味で呼んだのであり、この場合には限定修飾語を伴う連語だが、それが呼び慣れされるに従って、人物そのものの名称となり、語としても全く一単語になりきってしまうのである。「白墨」は、現今の主体的意識においては「白い」「墨」という二個の概念単位に還元されるのではなく「チョーク」という一概念単位を表すに過ぎない。従って「赤い白墨」「青い白墨」ということが可能なのである。もし主体的意識において「白墨」が二つの概念に分析されるとしたら、「赤い白墨」ということは全く非論理的表現といわなければならない。
 また「心細い」「はがゆい」「芽生える」「腹立つ」等の語は、成立当初においては二単語の結合として経験されたのだろうが、次第にそれが融合して一概念を表すようになり、一単位の語として経験されるようになるのである。言語を、経験する主体を離れて、客観的に一単語か二単語かを決定することはできない。
 単語の本質は、音声の側にもまた概念の側にもなく、概念が音声に表現される一回の過程それ自体にある。このように考えれば、従来ややもすれば、音声の対応物を直ちに物自体であるとし、その物の単複から語の単複を決定しようとする困難からも脱却することができると思う。


【感想】
 ここで著者が述べている要点は、以下の通りである。
1 これまでの言語研究では、言語の単位は単語であるとされてきたが、単位とはどのようなものかに答えることは容易ではない。
2 言語における語の単位は、個物を計量するための基本となる質的統一体であり、それ自身一体である一全体でなければならない。従って、単語は、言語研究において、研究者の焦点に結像された全一体であり、言語研究の出発点であると同時に、その本質の究明は終極の課題でもある。
3 単語を言語の単位と称することができるとすれば、「文」もまた言語の単位として考えられなければならない。文は単語の集合、単語の連結ではなく、文が文となるためには、それ自身を一体とし、統一体とする条件が必要である。要するに、文は、主観客観が合一し、まとまった思想の表現であり、詞と辞の結合であることを第一の条件とし、文はまた完結した思想の表現であり、言語的には終止する言語形式を必要とすることを第二の条件とする。文が一つの統一体であることは、単語が一つの統一体であることと等しいが、この二つの統一体としての単位の間には、種々な関係が存在し、言語研究の重要な課題を含んでいる。
4 単語は言語の質的単位である。質的単位とは、主体意識において認定された一つの全体概念であり、統一体の概念である。


5 我々の言語の経験は、心的内容aを、音声bあるいは文字cにまで表現する過程、あるいは文字cあるいは音声bより心的内容aを喚起する過程の経験によってはじめて成立する。一つの語は、このような経験が一回的過程として成立した場合に経験される。私は単語の本質をこのような一回的過程として規定する。


 著者はまず「単位」ということについて、①量的単位(尺、升等)、②質的単位(冊、人等)、③原子としての単位という考え方があることを示し、従来の国語研究が、③によって、単語を言語の単位としていることを批判している。言語の単位は「質的統一体」であるとし、「それ自身一体である一全体でなければならない」と述べている。だとすれば、単語は言語の質的単位であり、文もまた言語の単位である、ということである。単語と文の関係を、叢書とその中の一巻の書籍に譬えていることが、面白かった。   著者はまた、単語の本質を、心的内容を音声あるいは文字にまで表現する一回的過程であると規定している。この規定もたいへんわかりやすく、興味深かった。さらに「寒い」という語が、概念を表すだけなら単語だが、そこに判断が加われば文になるという説明もユニークであり、「言語過程説」の真髄が感じられた。  
 著者は後半節で「三角形」と「三線に囲まれた図形」の言語過程の違いや、複合語の表現過程を図示しているが、私自身その内容を十分に理解したとはいえない。先を読み進めることで、それが明らかになることを期待したい。(2017.9.28)

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・27

《三 文字の記載法と語の変遷》
 文字は言語表現の一段階であり、思想伝達の媒介に過ぎない。また文字は、異なった社会にも隔たった時代にも媒介の機能を持つので、言語の変遷に及ぼす力は大きい。
 例えば、ミモノ→見物→ケンブツ、モノサワガシ→物騒→ブッソウのように漢字的記載を媒介として新しい語が成立することもある。「シロタヘ」を「白妙」と記載した結果、タヘは布の意味に過ぎなかったが、「妙」を表意的に理解して「白妙の富士」のような用法が生まれてくる。「ウツセミ」は現身の意味だが「空蝉」と表音的に記載した結果、それが表意的なものと考えられ、「空蝉の世」は人の一生の意味より転じて、蝉の抜殻のような無常空虚の世の意味になり、さらに「空蝉の殻」のような語が生まれるようになった。 このように文字が語義の変化に関与するのは、文字が意味音声の喚起の媒介にすぎないことを示している。


【感想】
 ここでは文字の記載法が言語を変遷させることが述べられている。日本語(大和言葉)を漢字で表したため、その漢字の意味がひとり歩きして、新しい意味を加えることになる。ミモノという語を見物という漢字で表したためケンブツという語が生まれる。また、シロタヘは白い布という意味であったが、白妙という漢字で表されたため、新たに白くて美しいという意味を表す白妙という語が生まれた。ウツセミも当初は現身の意味に過ぎなかったが、空蝉という漢字を当てられたため、無常空虚という意味が新たに加わったという説明がたいそう面白かった。
 著者は「このように文字が語義の変化に関与するのは、文字が意味音声の喚起の媒介にすぎないことを示している」と結んでいるが、ここでも文字が実体として音声と意味を含んでいるという考えは否定されていることが、よくわかった。


《四 表音文字の表意性》
 文字の本質的機能は、それが音声を喚起し、意味を喚起するところにある。
 文字は結局言語の意味を喚起するものだから、表音文字であっても、その文字が語の意味と必然的な関係を持っているように考えられてくるのは当然である。表音文字が意味を直接に内蔵しているように考える主体的意識を無視することはできない。
 今日、助詞として使われる「は」「を」「へ」等は完全な表音の機能を持っていない。これらを「わ」「お」「え」に置き換えられないという主体的な気持ちは、表音文字としてではなく、ある観念を表す表意文字として意識しているのである。これは全く習慣の久しきに基づく。
 言語過程は、最初意識的な主体的行為として始まり、それが習熟するに及んで、ほとんど反射的行為に接近し、そのようになることによって言語の機能が完成する。その結果、概念から音声への移行が、概念と音声の結合のように主体的には意識されるようになる。「痛い!」という表現が、ほとんど感嘆詞と思われるまで習熟するのはその一例である。ここにまた、言語変化の契機が潜んでいる。
 従って、言語の観察において、主体的意識にあるものは、どこまでも主体的意識としてその存在を確認し、これを対象にして言語機能全体における連関を明らかにする必要がある。


【感想】
 ここでは、表音文字である仮名が、意味を内蔵しているように感じられる例について述べられている。助詞の「は」「を」「へ」などは、「わ」「お」「え」に置き換えられない(「わたしわほんおよむ」という表記に違和感を感じる)ということは、「は」「を」「へ」などを表音的にではなく表意的に使っているということである。
 著者は「ある観念を表す表意文字として意識しているのである。これは全く習慣の久しきに基づく」と述べている。助詞は言語主体の観念が、そのまま語として顕在化したものである、という著者の「言語過程説」の一端が見えてきた。次章はいよいよ「文法論」である。大きな期待を持って読み進めたい。(2017.9.27)