梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・26

《二 国語の文字記載法(用字法)の体系》
 用字法の体系とは、主体的用字意識の体系に他ならない。 
 言語主体が文字によって何を表そうとしたか、どのような用意があったか等の主体的な表現技術及び意図を探ることになる。
 国語の文字を分類すると次の二つに分けられる。
一 言語における音声を表そうとする表音的記載法
二 言語における意味を表そうとする表意的記載法
 漢字が輸入された当初、国語はすべて漢字によって記載された。やがて仮名が漢字から脱化して表音的目的が達せられるようになった。仮名は、単なる漢字の書記行為の技術の変化から生まれてきたものではなく、漢字の用法にその萌芽がある。すなわち、表音的意図のもとに漢字が使われた。一方では漢字が仮名として極端に省画草体化され、他方では漢字が原形のまま使われているのは、我が国においては表音的意図による記載法と共に、表意的意図による記載法が両立しているからである。この二つの方法を根本にして、国語の記載法はその組み合わせによって成立するが、この二つの方法には自ら領域があって、そこから国語主体(書き手)の表現意図を汲み取ることができるのである。
(イ)語を全部表音的に記載する方法
斯帰斯麻(シキシマ) 左散難彌(サザナミ) 福路(フクロ) 鶴鴨(ツルカモ)
金平糖(コンペイトウ) 天夫羅(テンプラ) 加寿天羅(カステラ)
矢張(ヤハリ) 駄目(ダメ) 呉々(クレグレ)
このように、漢字仮名による表音的記載法は、国語の音声の表現を厳密正確を期することができるが、古事記の編者が述べているように、それでは記載が冗長になるおそれがある。そこで、漢字の本来の性格である表意的方法が平行して行われる。
(ロ)語を全部表意的に記載する方法
「ムスメ」を表すのに女、娘と記載し、「ハラカラ」を表すのに兄弟、同胞と記載する。この方法は、国語の音声の表現を犠牲にして、意味のみを表そうとするので、記載の約束が知られている範囲あるいは時代には、誤りなく理解させることができるが、絶対的ではない。「上」が「ウエ」であるか「カミ」であるか「アガル」であるか「ノボル」であるかが不明になるかもしれない。万葉集等の訓点が困難なのは、表意的方法による記載のために、国語の音声が記載されなかったためである。今日、体言と用言の語幹は表意的に記載されるのに対して、助詞、助動詞はほとんど表音的に記載されるようになった。さらに表意的方法に対応するものとして漢字を、表音的方法に対応するものとして仮名を用いた結果、語と文字との間に一定の秩序が成立することになる。 
 秋風吹(奴)  鳥(が)鳴(き)(ます)。 ( )は表音的方法による漢字及び仮名(ハ)部分的表音表意
 一語の中に表音表意を混用すること、例えば「オトメ」を「をとめ」「乎等売」とし、あるいは「郞女」「処女」「少女」とするのは、それぞれに純粋な表音表意だが「乎等女」「乙女」等とするのは表音表意の混用である。この方法には表音表意相補って、国語の意味と同時に音声をも示そうとする意図が覗われるものがある。その最も著しいのは、用言における語尾の添加であり支那文字としての漢字によっては表せない語尾を表音的に添加記載しようとしたものである。
 話礼(カタレ) 荒夫流(アラブル)
 この方法は、今日においては用言に多く用いられ、体言に用いられることはわずかだが古くは広く自由に用いられた。
 烏梅(ウメ) 孤恋(コイ) 楊奈疑(ヤナギ) 物能乎(モノヲ) 羽根(ハネ)
 族ラ(ヤカラ) 兵ノ(ツワモノ)
このようにして、「花咲」と「花咲く」とは、表された国語は全く同一だが、記載法は相違している。それは単に表音と表意の運用であることの外に、その根底に、国語の精密な表現が「咲く」の《く》によって企図されていることを観取しなければならない。この方法は純粋な表意的表現の場合と、その意味を精密にする場合に行われたので、後世の振り仮名とも共通するものを持ち、これらは用字意識に立って連関して考察されなければならない。
 例えば、(白)雪 :表現された国語は単に「ユキ」であって、文字の上にのみ白を添加して、これを限定修飾している。
 例えば、秋(時):アキを表すに過ぎない。
 上の「白」「時」は「咲く」の「く」と同様に、語の記載としては蛇足のようだが、意味を補い、理解を助ける上に効果があると考えなければならない。
(ニ)表音表意の兼用
 漢字による表意的記載法は、語の意味は表出できても、音声を表出することができず、表音的記載法は、音声を表出できても、意味を表出することができない。そこで一語の中に部分的に両者を混用することによって表現を助ける方法が生まれた。漢字は表音にも表意にも用いることができるので、表音的方法に表意的方法を含ませ、表意的方法に表音的方法を含ませるという方法も考えられる。これが表音表意の兼用といわれる方法である。 倶楽部(クラブ) 転歩(テンポ) 多葉粉(タバコ) 合羽(カッパ)
(ホ)解釈過程の文字表現
 「吉野爾在」(ヨシノナル)
 言語主体によって表現される国語は「ナル」であって「ニアル」ではない。しかし「ナル」が記載されようとする時、主体はいったんこの語を「ニアル」と解釈し、この解釈されたものを「爾在」と記載することによって、「ナル」の語の記載としようとしたのである。この記載法は解釈を経た表出法であるということができる。「爾在」という記載法それ自体は、表音「爾」と表意「在」との結合と見てさしつかえない。このような解釈を経た記載法は、「アサケ」を「朝明」、「ミナワ」を「水泡」、「アリソ」を「荒磯」、「ワギヘ」を「我家」等とする方法にも見ることができる。語および文字は、事物そのものを表現するのではなく、事物に対する主体の意味的把握を表現するのだから、「カタブク」を「西渡」と記載したり、「モミジ」を「黄葉」と記載したりすることと根本的に相違するものではない。 
 現今国語の助詞、助動詞は仮名で表音的に記載されるが、万葉集においては漢字で表意的に記載されている例がある。
 君之行疑 宿可借疑 言量欲 朝寝疑将寝 
 上の例では、「ラム」「カ」が「疑」字によって、「モガ」が「欲」字によって表意的に記載されている。これも解釈過程を経た記載法である。語としては概念過程を経ない語であるが、文字記載において概念過程を経て表出されたのである。それが記載の技巧として、隠語と同様に言語主体の興味の対象ともなったのである。万葉集の戯書がその甚だしいものだが、このような記載法は後世にも後を絶ったわけではない。


 以下「国語の記載に使用される文字の分類と記載法の体系」を表示する。
◎第一表 文字の分類
一 表音の目的に使用されるもの・・・漢字、平仮名、片仮名、ローマ字
二 表意の目的に使用されるもの・・・支那伝来の漢字 本邦製作の漢字
◎第二表 語の記載における第一表の運用
一 全部表音・字音によるもの  字訓によるもの 
二 全部表意・漢語によるもの 本邦における熟字の創作によるもの 漢語句によるもの三 部分的表音表意・・送り仮名を加える方法
四 表音表意の兼用
五 表音表意の結合・・振り仮名を添える方法
六 特殊な表音技巧・・戯書 十六(シシ)  
七 特殊な表意技巧・・山上復有山(出) 米(八十八)寿  喜(七十七)寿
八 記載の省略・・あめり、はべしの類における撥音促音の省略 源義経の類における「の」の省略


【感想】
 私は前項の感想で〈私自身、「サクラ」を「桜」と記載することの代わりに「さくら」と記載することがどのような用字法に属するか、「ユク」を「行」あるいは「行久」「行く」と記載することの相違の意味を明らかにすることができない。次項でそれらが明らかになることを期待して読み進めたい〉と書いたが、その意味がすこし分かったような気がする。サクラを「桜」と記載する用字法は表意的方法であり、「さくら」と記載するのは表音的方法という用字法に属する、ということである。また、「ユク」を「行」あるいは「行久」「行く」と記載することの相違は、前者が表意的に記載しているのに対して、後者は「部分的表音表意」(送り仮名を加える)記載方法という違いがあるということではないだろうか。
 著者は、〈「花咲」と「花咲く」とは、表された国語は全く同一だが、記載法は相違している。それは単に表音と表意の運用であることの外に、その根底に、国語の精密な表現が「咲く」の《く》によって企図されていることを観取しなければならない。この方法は純粋な表意的表現の場合と、その意味を精密にする場合に行われたので、後世の振り仮名とも共通するものを持ち、これらは用字意識に立って連関して考察されなければならない〉
と述べているので、「行」という記載より「行久」または「行く」という記載の方が、より精密な表現が企図されているのだ、と思った。
 また著者が、「吉野爾在」という記載法を取りあげて、言語主体は「爾在」を「ニアル」といったん解釈し、この解釈されたものを「爾在」と記載することによって「ナル」の語を記載しようとしたのである、と説明している件がたいそう面白かった。言語主体(書き手)の解釈過程が文字表現に現れる例として、万葉集の「ラム」「カ」が「疑」という字、「モガ」が「欲」という字で《表意的》に記載されているという指摘も興味深い。特殊な表音技巧としては十六と書いてシシと読ませる、表意技巧としては山上復有山と書いて「出」と読ませるなど、《戯書》の例も紹介されている。
 いずれにせよ、言語主体(書き手)の思想、心情が文字の記載に反映されているということが、よく分かった。(2017.9.26)

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・25

《第二章 文字論》
《一 文字の本質とその分類》
 文字の本質は言語過程の一段階である。それは二つの側面からいうことができる。その一は、文字は、「書く」「読む」という心理的生理的過程によって成立する。音声が発音行為によって成立するのと同じで、文字は書記行為であるといえる。文字は主体的所産であり、活字についてもいえる。音声における拡声装置に似ている。文字を書記行為として捉えると、筆写体と活字体、草書と楷書と行書、平仮名と片仮名等のように分類できる。その二は、文字が音声あるいは意味を表出し、言語としての機能を果たすところにある。主体的な思想感情が外部に表出される一段階として見ることができる。第一の書記行為としての文字は、第二の意味・音声の表現としての文字の部分的過程と見ることができる。意味・音声の表現ということは文字の本質であるから、文字の本質的分類は、それが言語の音声を表すか、意味を表すかにつながっている。文字を過程的において把握することと、主体が何を表現しようとするかを文字の分類基礎とする主体的立場に立つ時、文字は一表音文字、二表意文字に分類される。表音表意ということは。話し手の側からいえば、音声を表す文字、意味を表す文字であり、聞き手の側からいえば、音声を喚起される文字であり、意味を喚起される文字であるというように解釈しなければならない。文字の区分は、話し手聞き手を含めた主体的意識に立脚してはじめて決定されることである。
 一般に表意文字として使用される漢字が、表音文字として広く使用されたことは、万葉集等の記載法でよく知られているが、一般には表音文字として使用される仮名が、稀に表意文字として使用されることがある。例えば、電報の記載法として「五ヒカヘル」のように使用されるヒは「日」の代用として表意的意図が濃厚である。また、物語文等にしばしば見られる「廿よ日」の《よ》は表音的でなく餘字の代用として表意的に使用されたように推定される。以上の例からも、主体的意識を除外して文字の分類をすることはできない。
 しかし、従来の文字の考察に見られる態度は、第一に、文字を客体的存在として考え、言語主体がこれを使用するというように考えた。例えば、借訓という名目からも明らかなように、漢字の持つ訓を借りて国語を表すというように考えた。第二には、漢字をその読法と睨み合わせてその関係を考慮した。例えば正訓、天(アメ)、地(ツチ)に対して、略訓約訓、荒磯(アリソ)、磐余(イハン)を対立させたようにである。これは文字と言語の関係を、容器とその内容のように静的構成の関係で観察したことを意味するのであり、そこでは言語主体との関係は考慮されず、文字とその読まれたものとの関係だけが考慮されているのである。
 元来漢字は外来的のものであり、常識的にはこれを客体的存在として考え、借用とという観念で律するということはやむを得ないが、それが国語を表現するということになるなら、その関係は借りる者と借りられる物との関係ではなく、借りられる物は表現の機能として考えられなければならない。
 従来の用字研究は、漢字とその訓法との関係のみを注意したために、「サクラ」を「桜」と記載することの代わりに「さくら」と記載することがどのような用字法に属するかを明らかにできず、「ユク」を「行」あるいは「行久」「行く」と記載することの相違の意味することも明らかにできず、用字研究はほとんど漢字専用文献の問題として限られた。
 文字の分類の基礎に主体的意図として表音と表意を認めるなら、文字の一切の現象は、この主体的原則を推して行かなければならない。その時、国語の文字はどのような体系に組織されるのだろうか。次に、この点について触れたい。


【感想】
 文字とは何か。著者は「文字の本質が言語過程の一段階にある」ということを、二つの側面から説明している。〈その一は、「文字は、「書く」「読む」という心理的生理的過程によって成立する。音声が発音行為によって成立するのと同じで、文字は書記行為であるといえる。文字を書記行為として捉えると、筆写体と活字体、草書と楷書と行書、平仮名と片仮名等のように分類できる。その二は、文字が音声あるいは意味を表出し、言語としての機能を果たすところにある。主体的な思想感情が外部に表出される一段階として見ることができる。第一の書記行為としての文字は、第二の意味・音声の表現としての文字の部分的過程と見ることができる。意味・音声の表現ということは文字の本質であるから、文字の本質的分類は、それが言語の音声を表すか、意味を表すかにつながっている。文字を過程的において把握することと、主体が何を表現しようとするかを文字の分類基礎とする主体的立場に立つ時、文字は一表音文字、二表意文字に分類される。表音表意ということは。話し手の側からいえば、音声を表す文字、意味を表す文字であり、聞き手の側からいえば、音声を喚起される文字であり、意味を喚起される文字であるというように解釈しなければならない。文字の区分は、話し手聞き手を含めた主体的意識に立脚してはじめて決定されることである〉ということである。つまり、文字を過程的に把握するという主体的立場に立てば、まず「表音文字」と「表意文字」の二つに分類されるということである。
 さらに著者は、従来の文字研究が、文字を客体的存在として考えたこと、漢字をその読法と睨み合わせてその関係を考えたことについて批判している。
 私自身、「サクラ」を「桜」と記載することの代わりに「さくら」と記載することがどのような用字法に属するか、「ユク」を「行」あるいは「行久」「行く」と記載することの相違の意味を明らかにすることができない。次項でそれらが明らかになることを期待して読み進めたい。(2017.9.25)

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・24

《五 音声の過程的構造と音声の分類》
 自然的音声の分類基礎がもっぱらその物理的条件にあるということは、音響の本質がそこにあるからである。これに反して、言語の音声は、それが成立するためには、主体的な発音行為を必要とする。主体的意識としての聴覚的音声表象は、発音行為の一段階として現れるものに過ぎず、音声はその外に口腔の発音器官の参与と物理的過程とを含むものである。音声の成立条件としては一般に物理的構成、生理学的機能、心理学的性質の三者が存在することが認められている。(佐久間鼎氏「日本音声学」)そして、この三条件が過程的構造に聯繋していることはすでに述べた。なお子細に見ると、音声の分析的究極の単位として見られている単音ですら、一定の固定した条件で発音されるのではなく、やはり一連の過程的構造を持っている。タ行子音のt は、一個の単音であるといわれているが、tを構成する発音過程は、三つの部分に分けて考えることができる。口蓋の閉鎖、閉鎖の持続状態、閉鎖の破裂の三つの過程である。このような複雑な過程をもつ調音を一単音と認める根拠は何にあるのだろうか。上の三つの条件が同等の資格で音声を決定しているのではなく、音声の主要な決定要素は、生理的機能すなわち調音であることは一般的に認められているので、音声の分類基礎として、一般には口腔の発音発声器官が基準とされている。しかし、単音の分析がまったく生理的条件でされているかというと必ずしもそうではない。単音の認識それ自体が、主体的な音声表象に基づいているのである。音声意識としては、生理的な三段階を含むものを一個の音として意識しているのである。「アッタ」のような場合には、t音の閉鎖状態が延長され、t音が二つに分割されてa-t-taのように聞こえる。もし一連の生理的過程を単音の基礎条件とするなら、t音が一個の単音と考えられなければならないが、国語の言語主体の音声意識としては、t音が閉鎖状態にある場合、特に分割して一単音と認め、これを促音と呼び「アッタ」と表記する。「トサ」と「トッサ」、
「テキ」と「テッキ」も同様である。撥音も同様に、「アマ」「アンマ」、「アナ」「アンナ」のように、m、nの持続過程を一個の単音として区別したのである。このように単音の認識には聴覚的音声表象が基礎になっていることがわかる。それならば、このような音声表象の分析を可能にする根拠がどこにあるかを考えると、これを決定するには言語のリズムである。「アタ」と「アッタ」の関係をリズムを基礎に分析すると、「アッタ」はt音が持続されて、リズムの一拍音間隔を充填した結果、生理的には一単位であったものが、二単位に分割されて意識されることになったのである。同様なことが撥音[ン]についてもいえる。促音[ッ]、[ン]は共にt、s、k、pあるいはm、n、g等の音の一部分であるものが、リズム的分割に制約されて二音に分割され、それぞれ一個の独立した単音として意識されるようになったものだが、この考えでは、長音もやはりそれ自身リズムの一拍音の間隔を充填するものとして一個の単音であるということができると思う。
 すべて音声は連綿相関の関係で結合しており、客観的にはどこまでが何の音であるかを分析することは不可能である。単音を単音として認識させるのは、リズムを根底とする主体的な音声意識である。主体的意識としてはつねに同化作用によって、異なった生理的条件のものを類化して意識する。例えば、「イタ」の[イ]と「コイ」の[イ]を比較すると、観察的立場では後者の[イ]は前者の[イ]に比べて不完全な形態だと認められるにもかかわらず、主体的には同一音と認めている。また「アッタ」「トッサ」「テッキ」等の[ッ]はそれぞれ調音が異なるにもかかわらず、促(つま)るという主体的な印象によって同化されて一つの単音を構成している。撥音、長音も同様である。
 単音の抽出は、以上のように主体的音声意識が基礎になるが、分割を意識させるものとしてリズムは極めて重要な役割を持っている。このように分析された単音の分類については、生理的機能すなわち調音が重要な基礎とされる。音声における調音は、言語の同一性を保持するのに絶対必要な条件だからである。「ヤマ」の[ヤ]を他の調音、例えば[カ]に替えれば、この語はもはや同一の語とはいえない。


【感想】
 ここでは、「すべて音声は連綿相関の関係で結合しており、客観的にはどこまでが何の音であるかを分析することは不可能である」としながら、単音の抽出は、主体的音声意識を基礎に、リズムを考慮しなければならないことが述べられている。特に、促音、撥音、長音などは、リズムの一拍分を充填するので、[ッ][ン]「-」は一単音として認めるべきである、という指摘(主張)がたいそう面白かった。ただ、単音と音節の関係については触れられていないので、「アッタ」は二音節なのか三音節なのか、同様に「アンマ」「オーギ」(扇)の音節数も、依然として私の疑問は残ったままである。
(2017.9.24)