梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「衆院選2017」の《構図》

 Aが番頭役Nおよび先輩A'にそそのかされて衆議院を解散した。その目的は、低下を続ける内閣支持率を回復し、(身内の防衛産業を促進して)「私腹を肥やす」ことにある。しかし、この解散はA'がAを陥れるために打って出た窮余の一策であったことにAは気づいていない。A'は秘かにAの失脚を謀っているのでる。なぜなら、内閣改造でA'とはソリが合わないAの側近Sを排除するように迫ったがAは応じなかった、さらにAが今の座にいる限り、「M・K疑惑」の火の粉がいつわが身に降りかかってくるかわからない。A'の座も今は危ういのである。 
 その動きを見た、Kの中に野望が生まれた。「Aを倒すのは今だ!」。もともとKはAの座を狙っていたが、現状では無理と判断して、ひとまず都知事の座に身を置くことにしていたのだが・・・。Kの心中には都知事選の圧勝がしっかりと記憶されている。「今なら勝てる!」そう確信して、Kは側近のWやGに新党の結成を指示した。つい先日、野党第一党代表の座を確保したばかりのMは、「しまった!」と直感する。「このままではKに負け、野党第一党の座を失う!」焦ったMはKに擦り寄り、新党への合流を申し出た。それをKがそのまま受け入れれば、A政権を倒す可能性が広がるが、そうは問屋が卸さない。KはMに「異端者は排除する」と応じた。かくて、衆院選に突入、Aの首は辛うじて首の皮一枚つながるが、自己本位・自己保身のA政権の寿命は短い。当然のことながら、Mの野党第一党は雲散霧消、Kの新党が野党第一党の座を占めることになる。他の弱小野党は日本の民主主義を担保するだけの存在に終始し、その公約とは裏腹に国民の夢と希望には寄り添わない。
 「中国や北朝鮮が日本を侵略し占領下に置く」という想定は、過去2000年の歴史を振り返っても「妄想に過ぎない」ことは一目瞭然である。Aがその(祖父譲りの)妄想を確信しているかどうかはともかく、その妄想を国民に浸透させ、A一家一族郎党の弥栄繁栄(防衛産業の振興促進)を第一に希求していることはたしかだ。「国民の命と財産を守ります」という公約は真っ赤な嘘である。これまで、「テロとの闘い」で何人の民間人がが犠牲となったか。今もなお、他国に拉致されている国民を「事実として」救出できずにいるではないか。国民の命と財産を守っているのは、(実は)主権者である国民自身に他ならないことを、A、A’らを筆頭とする(野党も含めた)政治家連中には理解できないのである。(2017.10.3)

「頭が痛くなる」話

 8月末から「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年・550ページ)を精読開始して1カ月余り経ったが、体調に異変が生じた。いわゆる「頭皮神経痛」という症状らしい。頭皮がピリピリ、時にはズキズキして、文字を追うことが苦痛になった。
 現職時代(54歳頃)、私は「無症候性脳梗塞」を発症しているので、念のため当時のカルテが残っている大学附属病院・脳神経外科を受診した。午前10時過ぎ、受付で診察券を提示し、脳神経外科の外来窓口に向かった。問診票に記入して待つこと1時間弱、看護師がやって来て記入内容を確認する。これまでの経過を聞いて「患者さんの場合、脳神経内科が該当すると思われますが、本日は担当医がおりません。脳神経外科医が対応できるか相談します。しばらくお待ちください」。やがて待つこと30分、「外科医が対応することになりました。しばらくお待ちください」。午後0時40分を回った頃、私の受付番号が提示され「中待合でおまちください」ということになった。やがて医師と面談、「どのような痛みですか?」「頭の表面がピリピリ、時にはズキズキします。帯状疱疹のような痛みです」「・・・? 帯状疱疹の診察は、ここではありません」といったやりとりの後、医師は薄笑いを浮かべ「要するに、MRI検査を受けて異状がないと確認し、安心したいわけですね」と言う。「その通りです」「では、予約しましょう。いつがいいですか」とコンピューター画面のカレンダーを提示する。「一番早ければ、いつになりますか」「10月12日です」「では、それでお願いします」「わかりました。今、予約票を作成します」。私は予約票を受け取って退室しようとして気がついた。「ところで、この痛みは放っておいていいものでしょうか」。医師は笑いながら「頭の中の痛みではないようです。痛み止めを出しますか?」私も笑いながら、「いえ、それならこちらで何とかします」と答え、この診察場面は終わりとなった。そういえば2年前にも、同様の症状で、この病院を受診したことがある。その時は、その日の内にMRI検査を実施して、「異状なし」を確認することができたのだが・・・、この3時間余りの待ち時間中に異変が生じたら、誰が責任をとるのだろうか。もちろん、病院が責任をとるわけがない。だとすれば、病院とはいったい何のためにあるのだろうか。医療とは「福祉」の範疇に入る営みだと思われるが、現代の「福祉」とは、所詮この程度のことを意味しているのである。
 帰宅後、私は「中国電子鍼治療器」なる器機を探し出し、「自宅で痛みをとる本」(主婦と生活社」という手引き書を参考に、「百会」「風池」「曲泉」「中封」「太衝」「合谷」「外関」というツボをそれぞれ2分間(「百会」以外は左右2個所)、合計30分弱、刺激したところ痛みはかなり減少した。しかし、その持続効果は6時間程度だろう。整骨院の針治療も効果はあるが1回7000円余り、その持続効果は10時間程度である。
 今後、どのような治療法を選択すべきか、考えるだけでも「頭が痛くなる」話で 
ある。(2017.10.2)

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・30

ロ 詞辞の意味的連関
 詞は概念過程を経て成立したものであるから、主体に対立する客体界を表現し、辞は主体それ自身の直接的表現である。これを図に表せば次のようになる。


              C(詞)
  A(主体)→B(辞)↗
           ↘
             D(詞)


 「花よ」という詞辞の連結を例にして考えると、感動を表す「よ」は客体界を表す「花」に対して、志向作用と志向対象との関係で結ばれていると見ることができる。言語主体を囲繞する客体界CDと、それに対する主体的感情ABとの融合したものが、主体Aの直観的世界であり、これを分析し、一方を客体化し、他方それに対する感情として表現したものが「花よ」という言語表現になるのである。従って、この詞辞の意味的連関は。客体界CDを主体ABが包んでいるということができる。詞は包まれるものであり、辞は包むものである。「愛らしい花」「花が愛らしい」といった場合には、主体的感情がすでに概念化され、客体化されて「愛らしい」という詞によって表現されたので、その関係は包むものと包まれるもの、あるいは志向作用と志向対象の関係ではなく、両者ともに包まれるCDの位置に置かれたことになる。包むものと包まれるものとの関係は、ABとCDは秩序を異にし、次元を異にしているともいえる。たとえていうなら、風呂敷とその内容との関係である。内容である甲乙丙はすべて皆同一次元のものだが、これを包む風呂敷は、それらとは別の次元に属するものである。
 詞は「山」「川」「喜び」「悲しみ」などのように、客観的なもの、主観的なものの一切を客体化して表現するのだが、それだけでは思想内容の一面しか表現できない。
 辞は、これまた主体的なものしか表現できないので、具体的な思想はつねに主客の合一した世界であるから、詞辞の結合によってはじめて具体的な思想が表現できるのである。そしてその意味的関連は、次元を異にし、包むものと包まれるものとの関係にあるのである。
 さらに、言語主体の立場で見ると、辞は客体界に対する言語主体の総括機能の表現であり、統一の表現であるということができる。主体的な総括機能あるいは統一機能の表現の代表的なものを印欧語に求めれば、A is Bのisであり、いわゆる繋辞copuiaである。すなわち繋ぐことの表現である。印欧語においては、その言語の構造上、総括機能の表現は、一般に概念表現の語の中間に位置して、これを結合する。このようなA-Bの形によって表す、統一形式を私は仮に天秤型統一形式と呼ぶ。これに対して国語はその構造上、統一機能の表現は、統一され総括される語の最後に来るのが普通である。
 花咲くか。という場合、主体の表現である疑問「か」は最後に来て、「花咲く」という客体的事実を包みかつ統一しているのである。この形式を図示すれば、『「花咲く」・か』のような形式で示すことができる。この統一形式は、風呂敷型統一形式と呼ぶことができると思う。同様に『「彼読ま」・む』『「我読ま」・む』の「む」は、「我」に対応して、その推量を表したものではなく、文の主体の推量を表したものである。「我」と主体とは、同一物であっても、その表現からいえば「我」は主体の客体化されたものであるから、主体それ自身ではないのである。上の場合、「我」は「彼」と全く同等の地位を占める客体の表現に過ぎないことことを注意すべきである。
 助詞の場合も同様であり、『「山」・に』『「川」・へ』「『花」・も』等は、すべて客体を主体的なもので包み、ある一つの主体的統一を表していることを意味する。助詞「に」は、一般に物と物との関係を表す語であるといわれているが、そのような関係の認識は結局主体の物に対する認識に帰着するのであり、「山に」という表現によって、主体の物と物との関係に対する認定を理解できる。「山」はこうして主体に対してある連関があることが「に」によって表現されていると考えなくてはならない。「山に遊ぶ」は「山」と「遊ぶ」を繋ぐもののように考えるのは、主体的立場を除外している。
 ちなみに、『「○」・▲』の形の▲の意味は、引き出しの引手を象徴したものであり、引手は形式的には、引き出しの一部に付着しているにすぎないが、意味的には、引き出し全体を引き出すものとして、引き出しを統一し総括する関係に立っているもので、辞は引手と同様な関係であることを示している。



【感想】
 ここでは詞と辞の意味的連関について説明されている。「花よ」という言語表現において詞「花」は事物を客体化し、概念化した表現であるのに対して、辞「よ」は話し手(書き手)の感動をそのまま音声化した表現であり、主体の観念を顕したものである。なおかつ、「よ」は「花」を(風呂敷のように)包み込んでいるという表現形式であるという説明が大変分かりやすく、面白かった。「愛らしい花」「花が愛らしい」という表現は、主体の感情は「愛らしい」という詞で客体化されているので、包まれるものだけで、包むものは顕在化されていないということだが、「花が愛らしい」の辞「が」どのような働きをしているのだろうかという疑問が残った。 
 さらに「辞は客体界に対する言語主体の総括機能の表現であり、統一の表現であるということができる」とし、印欧語A is Bのisというbe動詞もまた、繋辞としてAとBを文の中間で結合する役目をしているが、日本語の場合は、「花咲く・か」「彼読ま・む」などのように文末で客体界を総括、統一している。著者は印欧語の場合を天秤型統一形式、日本語の場合を風呂敷型統一形式と呼び、その構造上の違いを明らかにしている。
 助詞の場合も同様であり、「山に」「川へ」「花も」の「に」「へ」「も」は「すべて客体を主体的なもので包み、ある一つの主体的統一を表していることを意味する」ということである。だとすれば先ほどの「花が愛らしい」の「が」も花を主体的なもので包み、ある一つの主体的統一を表していると考えてよいのだろうか。著者は、辞を引き出しの引手にたとえ、「引手は形式的には、引き出しの一部に付着しているにすぎないが、意味的には、引き出し全体を引き出すものとして、引き出しを統一し総括する関係に立っている」と述べている。なるほど、辞は客体表現の末部(後部)に付着して、意味的には客体表現全体を統一、総括するものだ、ということがわかったような気がする。
(2017.9.30)