梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・33

 次に、形容詞の連用形に結合した「あり」がある。
●この冬は暖かり(く・あり)き
 この例においては、すでに零記号の陳述が加わった「暖かく」に「あり」が結合したもので、その形式は「学生で」に「あり」が結合したものと同じである。
*山田孝雄氏はこの「あり」を形容存在詞と命名し(「日本文法学概論」)、「日本文法論」で以下の説明を与えられた。
〈第一種の場合(存在概念を表す場合)と同じく事物に対してのある種の存在的意識をあらはすものなれど、第一種のものは事物そのものの存在をあらはし、第二種のもの(「暖かり」の類)は属性そのものが本体たる事物その者の上に存することをあらはすなり〉
 この「属性そのものが本体たる事物その者の上に存する」ということは、「この冬は暖かりき」という表現をそのまま理解したところからは出てこない。この文を「暖かさはこの冬にありき」とでもした場合にいえることだが、これは言語を離れた説明であり肯くことはできない。この例から、その説明をそのまま受け取った場合でも、二通りの理解が成立する。
一 「あり」を存在の概念の表現とし、「暖く」をその限定とし、「暖かり」を「この冬」の述語と考え、この冬はこれこれの有様で存在するという意味に解する。その時「暖かりき」は一つの詞と考えられる。
二 「あり」を陳述とし、「この冬は暖かい」という判断にさらに判断が重加したものと解する。口語の「この冬は暖かいです」の「です」、「暖こうございます」の「ございます」と同じように考えようとするのである。
 その何れが正しいかはしばらく措くとして、問題は「あり」をどのように処理するかということである。一の「あり」を存在と考える立場からは、「暖かり」を一語とし、詞と考えてこれを形容動詞とする立場が生まれてくる。二の「あり」を陳述と考える立場からは、「あり」を「暖く」から切り離して、次のように理解する立場が生まれてくる。
● この冬は(主語) 暖く(述語) あり・き
 この理解に従えば、「ありき」は、この冬は暖い・よ(か・ね・らしい)における辞「よ」「か」「ね」「らしい」と全く同列に考えられることになり、さらに進んで、
● 本を読みき
● 水は流れき
 における「き」と同じように考えられることになる。形容詞連用形に「き」が続く場合、その中間に介在する「あり」は、「暖い」で陳述が完成しているにもかかわらず、さらに「暖かいです」という場合の「です」に相当するものと考えられる。中間に「あり」を必要とすることは、被接続語の性質によるものであって、「き」が他の辞に続く場合にも起こる現象である。
● 花咲き(に)き
● みぐしおろし給ひ(て)き
 のように「に」「て」にただちに続く場合と
● 花咲くべかり(べく・あり)き
● みぐしおろし給はざり(ず・あり)き
 のように、その中間に「あり」を必要とする場合とがある。この「あり」が存在概念を
表すものとは考えられない。
 形容詞連用形接続の「あり」に二通りの理解が成立するのと同様に、「ずーありーき」の「あり」についても、その取り扱い方は従来から問題であった。「暖かり」を一語と見て、「あり」をその語尾のように見る立場からは、「ざり」を一語と見、「あり」をその活用と見る。
 橋本進吉氏は、このような「あり」を補助用言といわれている。(「国語と国文学」)
氏の考えに従えば、補助用言「あり」の付いたものは一語となり、その活用は補助活用といわれる。氏は「ず」について、次のように説明している。
〈「ず」は(a)補助活用はないかというに、これと同じ意味の助動詞「ざり」があって、ラ変と同様に活用し、「ず」にない命令形をこれによって補っている(「思はざれ」「願はざれ」の類)。これはその起源において「ず」の連用形「ず」に動詞「あり」が付いて合体したもので、形容詞の連用形に「あり」が合してできた、形容詞の補助活用と趣をおなじうする〉(前掲論文)
 この論旨においては、補助用言が詞に属するか、辞に属するか、明らかにされていないが、形容動詞の語尾を形容詞の補助活用とするところは詞とも見られ、「ず」の補助活用として「ざり」を助動詞とするところは辞とも考えられている。要するに、「ざりき」のような場合は「ざりーき」とし、「べからず」のような場合には「べからーず」として取り扱い、すべて「あり」は上の語に接続させて考えられているのである。「あり」の一用法を辞と認める私の立場においては「ずーありーき」「べくーあらーず」というようにすべて辞の結合と考える。取り扱い方によっては、「ありき」「あらず」を一体と見て、それぞれ「き」「ず」の接続による変容とすることもできる。あたかも、敬語的陳述が、
● 咲く・■       (■は記号の陳述)
● 咲き・ます   「ます」は零記号の変容
● 美しう・ございます 「ございます」は零記号の変容
 のように、零記号より「ます」「ございます」と変容する場合と同じように考えられる。もし「あり」を詞の補助活用と考えるならば、上の「ございます」も補助活用として考えなければならない。
 「あり」の一用法を辞と見る考え方は、次のような事実にも適用できる。
● あり・つる文
● あり・し面影
● あら・ず
● と・ある・家
 上の場合は、具体的概念を表す詞を省略して、その陳述のみを「あり」で表現したのである。例えば、問・汝は行くか→答・あらず のように「行く」という詞を省略し、否定的陳述「ず」の代わりに「あらず」といったのと同じである。上の諸例は、いわば辞の独立的用法というべきものである。辞は一般には独立して用いられないが、詞辞の結合において、しばしば辞が零記号で表されるように、ある場合には詞が零記号で表されることを認めてよいと思う。
● 火事・か・・・・・・・→火事? 火事・■ 辞が零記号の場合
● 天気・だが・・・・・・→だが □・だが 詞が零記号の場合
 詞の零記号になる場合は、それが省略されても自明のこととして理解されるような場合である。
● 雪が降っている。だが暖かい。
● 風は吹かない。けれども花が散る。
 「が」「だから」「だのに」「だって」「で」「でも」「では」「ですから」「でしたら」等は独立的に詞が省略されて用いられる。ここで注意すべきことは「降っている」というような零記号の陳述を受けてこれを繰り返すとき、「だが」という形で受けることであり、これによって見れば、「だ」と零記号の陳述は同一のものであることが知られる。否定的陳述が「あらず」となる場合も、「あら」は同様に零記号の陳述と同価値と見ることができるのである。


【感想】
 ここでは、形容詞の連用形に結合した「あり」について説明されている。「この冬は暖かりき」という例文をとりあげ、著者は「暖かりき」を「暖かく・あり・き」のように分析し、「あり」「き」はいずれも陳述を表す辞であると考える立場だが、一方、「あり」を存在を表す詞と考え、「暖かり」を一語(形容動詞)とする立場もあることを紹介している。どちらが正しいか、著者は結論を出していないが、さらに進んで、(著者の考えでは)動詞連用形に結合する「き」(本を読みき、水は流れき)と同様であり、また「花咲くべかりき」(べく・あり・き)「みぐしおろし給はざりき」(ず・あり・き)のように、中間に「あり」を必要とする場合があることを紹介している。この場合の「あり」が存在概念を表すものとは考えられない、という説明には、なるほどと感じる説得力があった。
 形容詞連用形接続の「あり」に二通りの理解が成立するのと同様に「ず・あり・き」の「あり」についても、従来から問題があったということである。橋本進吉氏は、そのような「あり」を補助用言といい、〈「ず」の連用形「ず」に動詞「あり」が合してできた、形容詞の補助活用と趣を同じうする〉と説明しているが、その補助用言が詞なのか、辞なのかは明らかにしていない。要するに、「ざりき」のような場合には「ざりーき」とし、「べからず」のような場合には「べからーず」として取り扱い、すべて「あり」を上の語に接続させて考えられている、ということである。これに対して著者は、「あり」を辞として認め、「ずーありーき」「べくーあらーず」というように、すべて辞の結合と考える。取り扱い方によっては「ありき」「あらず」を一体と見て、それぞれ「き」「ず」の接続による変容ともすることができる、とも述べている。それは、(敬語的陳述において)「咲く・■」が「咲き・ます」「美しう・ございます」のように零記号の■が「ます」「ございます」に変容する場合と同じようにも考えられる。もし「あり」を詞の補助活用と考えるなら、上の「ます」「ございます」も補助活用として考えなければならない、ということになる。
 「あり」の一用法を辞と見れば、「あり・つる文」「あり・し面影」「あら・ず」「と・ある・家」のような表現においては、具体的概念を表す詞を省略し、その陳述のみを「あり」で表現した、という説明がたいへんユニークで面白かった。辞は一般には独立しては用いられないが、詞辞の結合においてしばしば辞が零記号で表されるように、詞が零記号で表される場合もあるという考え方である。その時、辞は独立的に用いられる。詞が零記号になる場合は、以下のように、それが省略されても自明のこととして理解されるような場合である。
● 雪が降っている。(だが)暖かい。  
● 風は吹かない。(けれども)花が散る。
 ここで注意すべきことは、「降っている」というような零記号の陳述を受けてこれを繰り返すとき「だが」という形で受けることであり、「だ」と零記号の陳述は同一のものであるということである。
 〈なお「が」「だから」「だのに」「だって」「で」「でも」「では」「ですから」「でしたら」等は独立的に詞が省略されて用いられる〉という説明も、なるほどと納得してしまった。繰り返しを避けるため、詞を省略して辞を独立的に使うという考え方は、著者ならではのユニークな発想ではないかと思う。以降、読み進めることが楽しくなってきた。(2017.10.9)

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・32

ニ 辞と認めるべき「あり」および「なし」の一用法
 現行文法書の助詞および助動詞は、私のいう辞に合致するものだが、なお幾分の出入りを認めなければならない。
 その一は、一般に動詞として詞に属すると考えられている「あり」およびその一群の語である。
● ここに梅の木がある。
● これは梅の木である。
 上の例で、「が」に接続する「ある」が存在の概念を表し、「で」に接続する「ある」は判断的陳述を表している。しかし、
● 講演は講堂である。
 のような例においては、講演は講堂で行われるという風に「ある」を存在概念として理解する場合と、講演は講堂だ、というように「ある」を判断の表現として理解する場合とが考えられる。この相違を文法的に理解すれば、一方の「ある」を概念表現の詞とし、他方を主体的な表現である辞としなければならないと思う。
 それは以下のように図解できる。
● 講演は(主語) 講堂で(補語) ある(述語)*「ある」は「行われる」という意味で、詞である。
● 講演は(主語) 講堂で(述語) ある(辞)*「ある」は判断の表現で、辞である。 同様なことは、次の歌についてもいえる。
● 我が命も つねにあらぬか 昔見し 象の小河を 行きて見る為(「万葉集」)
 「つねにあれかし」の「あり」を存在詞(抽象的な概念を表す動詞・山田孝雄氏「日本文法学概論」)として見れば、「常にあれかし」に意味になるが、判断辞として見れば「常であれかし」「不変なれ」の意味となる。


 辞として考えられる「あり」の用法は、
《「に」と結合して》学生なり(に・あり) あはれなり(に・あり) 物にも「あら」ず
《「と」と結合して》事と「あり」 わざと「ある」上手ども なかなかに人と「あら」ずは
《副詞と結合する場合は》うたて「あり」 かく「あれ」ば
《「で」と結合して「だ」「じゃ」となった場合は》人「だ」 本当「じゃ」
《「あり」が場面の制約を受けて、主体の敬意を表現する場合は》私は男「です」 山は高い「です」 水は流れる「です」 これは私の本で「ございます」 結構で「ございます」
 以上の例は、すべて存在の概念を表すことはなく、「何々だ」という陳述を表すものであることは明らかである。
 陳述を表す「あり」と結合する「で」「に」「と」等は、元来それだけで判断的陳述を表すことができるが、中止的用法にのみ用いられ、他の場合には「あり」と結合して、判断的陳述を完成する。中止的用法は例えば以下の例である。
●艦隊は威風堂々「と」入港した。 ●月明らか「に」、星稀「に」、烏鴇南に飛ぶ
●結果は不首尾「で」またやり直した
「と」「に」「で」を陳述と見るならば、述語はそれぞれ「堂々」「明らか」「稀」「不首尾」であり、「と」「に」「で」は他の辞と同様に、それらの述語に対応する主語を総括して句を統一するのである。


【感想】
 ここで著者は、一般に動詞と考えられている「あり」(口語では「ある」)という語が、詞ではなく辞として使われていることを説明している。
「梅の木がある」という時の「ある」は存在を表す詞(動詞)だが、「梅の木である」という時の「ある」は、「だ」という判断を表す辞である、ということである。
 辞として考えられる「あり」の用法としては、「学生なり」(に・あり)、「あはれなり」(に・あり)、「物にもあらず」、「事とあり」「わざとある上手ども」「なかなかに人とあらずは」「うたてあり」「かくあれば」などという例を挙げ、すべて「何々だ」という陳述を表していると説明している。
 また、陳述を表す「あり」と結合する「で」「に」「と」等は、それだけで判断的陳述を表せるが、中止的用法の時にだけ用いられ、他の場合には「あり」と結合して判断的陳述を完成するということである。中止的用法とは、威風堂々「と」・・・、月明らか「に」、星稀に・・・、結果は不首尾「で」・・・、などのように、「堂々」「明らか」「稀」「不首尾」という述語に対応する主語を総括して句を統一する場合をいう。
 私が学んだ「学校文法」では、この「あり」を、助動詞の中に「補助用言」として位置づけていた。〈「○○である」は、助動詞の「○○だ」、「○○てある」「○○ている」は助動詞の「た」に当たるものであることが知られる〉という説明の後に、この本はおもしろく「ない」、手紙を書いて「しまう」、ひとりで行って「みる」、かりに分けて「おく」などの「ない」「しまう」「みる」「おく」も補助用言としている。さらに尊敬を表す「いすにかけていらっしゃる」「どうぞ聞いてください」「お出かけになる」の「いらっしゃる」「ください」「なる」なども補助用言だとしている。
 その見解について、著者はどのように考えるのだろうか。以後を読み進めることで明らかになることを期待したい。(2017.10.7)

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・31

ハ 詞辞の下位分類
 詞と辞の二大別の原理は、詞辞の下位分類においても厳重に守られなければならない。詞の中には絶対に辞の概念を含めてはならないのである。詞と辞の意味的関係は、「雨が」という連語を取りあげて見ると、「雨」および「が」という各々の単語は《「雨」(が)》という図が示すように、辞(が)が詞(雨)を包む関係になっている。主体が客体を包んでいるのである。分離された詞は、それだけについて見れば、全く主体的規定のない純粋の概念のみの表現である。この点は、詞と辞が一語の中に融合して(I・my・meのように)分析不能の形に結合している印欧語とは著しく異なる。従って、判断的陳述を表す文としての「降る」「寒い」などは《「降る」(■)》、《「寒い」(■)》の図のように、零記号の陳述■という語を含んでいると考えるのが妥当であると思う。「雨が降る」という文の陳述の位置は《「雨が降る」(■)》となり、詞としての「降る」「寒い」等の語それ自身は、主体の規定を離れた純粋の概念として見なければならない。
 「山」「降る」「高し」「あはれなり」はひとしく概念過程を経た詞であり、その点では差異を見出せないが、それらが他の語と接続する際の語形に相違を見出すことができる。体言、用言、さらに用言中に動詞、形容詞、形容動詞等を類別することができる。近世の国語学者が用言をもっぱら動く言、体言を動かぬ言として認めたことに深い理由を見出すことができると思う。用言が陳述を表す語と考えるのは、純粋に概念的なものに辞としての要素を加えて考えることになるから、その時はすでに詞としての用言を見ているのではなく、詞辞の結合したもの、すなわち文あるいは文節を見ていることになるのである。用言を単語として考える限り、それは純粋に概念的な詞としての用言を考えなければならない。以上のことは、述語的陳述においてばかりではなく、装定的陳述においても通じることである。例えば「春の雨」における「春の」は「雨」を装定するが、それは「の」が「春」を包む関係に立っているためであり、詞(春)辞(の)の結合によってはじめて装定的陳述が成立するのである。これを分解して「春」のみを詞として考える時、それは純粋に概念的表現であり、用言と比較して接続の語形を異にするから「体言」ということができる。同様に「淋しき雨」「降る雨」を装定的陳述という時は、詞としての「淋しき」「降る」に装定的陳述を表す零記号の辞が添加したものを考えているのである。これを前例と対比して見ると、
春の・・・《「春」(の)》   淋しき・・・《「淋しき(■)》  降る・・・《「降る」(■)》 ゆえに、詞としての「淋しき」「降る」は、全く純粋に概念的なものとして考えるべきであって、述語的陳述より分析された「淋し」「降る」と異なるところはその語形である。ここに連体形、連用形のような活用形の系列が認められるが、それがもっぱら形式的系列であって職能的系列でないということは、体言用言の類別と同様に、以上の説明で明らかになったと思う。
 国語において、一個の詞としての用言、「降る」「寒い」だけで文と考えることができるのは、用言が陳述を兼備しているためではなく、詞としての用言に、零記号の陳述が連結するためである。文は詞辞の結合で成立するという、私の文の本質観はここでも確認できる。


 次に、単語の分類において、しばしば重要な基準とされている単語の独立、非独立の問題について考える。語の独立、非独立ということは、語と語との関係に関することであり、語それ自身の本質上の相違ではない。ある語はそれ自身独立して用いられるが、ある語はつねにある語と結合してのみ用いられるということが、はたして語を合理的に分類する基準になるか。このことを明らかにするためには、まず単語認定の手続きを吟味して見るのが早道である。単語が孤立している時は問題はないが、連鎖をしている時、単語はどのようにして分析されるか。 
 その第一段は、以下のように思想の分節が音声の句切りを生むことを目安として、分節を造ることである。
● 雨 降らむ
●  雨が 降った
 橋本進吉博士は、このようにしてできた語の集団を文節と命名し、これは最も自然的な文の分解であるといっておられる。(「国語法要説」)この文節は、構成要素の点からいえば、詞(+零記号の辞)、あるいは詞と辞の結合が一団をなしていることは明らかである。 上の分節が明らかに示すように、国語の連鎖の最も自然的な分析は、必ずしも単語の認定には到達せず、多くの場合に、単語の結合されたものを見出させるに過ぎない。 
 そこで、第二段に進んで、以下のような分節が成立する。
● 雨・■ 降ら・む(■は零記号の辞)
● 雨・が 降っ・た
 この分節によってはじめて単語が抽出されるのだが、この単語抽出の段階は、文節の分解が自然的であるのに対して、一般に意識的であり、抽象的であり、帰納的であることが要求される。それは主体的意識に基づくというよりは、観察的立場に基づくのである。「降った」は「降っ」「た」と分解され、極めて非現実的な「降っ」を一単語として認定しなければならなくなる。辞が独立しない語であると同時に、詞にも用言の活用形のように独立しないものがある。「山」「川」は明らかに独立した体言と考えられているが、「旅館」「写真館」の館、「富士山」「深山」の山、「薬舗」「店舗」の舗などは独立して用いられない。でも体言以外のものと考えることはできない。「やりかた」「しかた」のかた、「つぎめ」「さけめ」のめ、なども独立的用法はもたないが、帰納的に見れば一単語と考えられる。国語における単語は、具体的なものの分析によって認定されるから、単語の認定が抽象的になることはやむを得ないことであり、そこに独立非独立ということが基準とはなり得ない理由があると思う。


 零記号の陳述を辞と同格に一単語として取り扱うことについて注意を喚起したい。
辞書の中に列挙されている「寒い」「流る」とかいう語は、それだけでは単なる概念を表す詞に過ぎないが、国語においては、肯定判断としての陳述を表す場合には、その形をそのまま、以下のように用いる。
● 風が寒い
● 水 流る
 この場合、「寒い」「流る」とは辞書的意味に陳述が加わったものと考えられ、山田孝雄博士は、用言の特質をその点に置こうとされている。
〈そもそも用言の用言たる所以はこの陳述の能力あることによることは既に繰り返し説きたるところなるが〉(「日本文法学概論」)
 従って、氏のいわゆる「陳述のし方に関する複合尾」(「同書」)が、用言の内部的要素、すなわち語尾と考えられるに至り、さらに用言の用とは、陳述の作用を有するものであると説かれるにいたったのである。用言に陳述の能力があると考えることは、文字が意味を持っていると考えるのと同様に構成主義的考え方であって、主体的立場においては、言語主体が用言において、陳述を表していると考えなければならない。それならば、主体の陳述は用言のどこに(零記号の陳述として)在るのだろうか。
 既に述べたように、印欧語においてはA is Bのように繋辞は語と語の中間にあってこれを結合している。He runs・・・・Heーrunsのように、語の中間に零記号で存在すると考えられるが、国語の「犬走る」においては、《犬■走る》ではなく《犬走る・■》のように、客体的なものの表現の最後に位置して、客体的なものを包む形で統一していると考えられる。
● 山は雪か・・・《山は雪・か》 
● 外は雨らしい・・・《外は雨・らしい》
●  犬走る・・・《犬走る・■》(■は零記号の辞)



【感想】
 ここで著者が強調していることは、《零記号の辞》という考え方である。通常「寒い」「走る」という語には、陳述の働きがあると思われているが、その語自身には陳述の働きはない、ということである。ある話し手がある聞き手に対して「寒い」と言ったとき、話し手は「寒い」という概念を肯定して陳述しているのだから、「寒い」という語の後に《零記号の辞》(話し手の判断)が加えられているという考え方である。「寒いか」という場合、「か」は疑問を表す辞であり、「寒い」の後に「か」と顕在化しているが、「寒い」という場合は「寒い■」というように、肯定を表す零記号の辞が潜在しているということである。
 私は著者の講義で、「一枚の絵の中に何が描かれているか」という問題を与えられたことがある。それは果物の静物画であった。学生たちは、一様に「林檎」「バナナ」などと答えたが著者は「まだ他にないか」と問いかける。一同は「テーブル」「カーテン」などと背景等まで挙げたが、著者は「まだ他にないか」と執拗に問いかける。皆が答に窮した時、「この果物は作者がどの位置から見たかという視点も描かれている」と指摘した。なるほど、それは、斜め上から果物を描写していた。その果物を通して作者の視点がわかるのである。画面の中に客体として描かれてはいないが、その客体は同時に作者の目の位置を表しているのである。著者は「辞とはそのようなものである」と説いた。言語表現においても、語られる内容とともに、話し手の意識が「見え隠れ」しながら加わっているのである。それは、ただ音声を聞き流したり、文字面を眼で追っているだけでは気がつかない。というよりは、聞き手や読み手は、まさにその話し手や書き手の意識を追体験しなければ相手の陳述の内容(主題・意図等)を理解できない、ということであろう。
 著者が言語を「主体的行為の過程である」と定義する理由がわかったような気がする。
(2017.10.5)