梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・36

 「あり」に辞としての用法があるという考え方によって、「なし」にも、辞としての用法がある。「なし」は元来、形容詞であって、詞に属すべきものだが、それが次第に肯定判断に対立する否定判断を表すようになってくる。本来、否定判断は「ず」あるいは「あらず」を用いるのが普通である。
● 水流る→水流れ(ず)  ● 山高し→山高(からず)
 しかし、
● その事と(なく)て ● その人とも(なく)て ●思しまぎるるとは(なけれ)ども 
● よそにのみ聞かましものを音羽川渡ると(なし)にみなれそめけむ(「古今集」)
● 夜と(なく)昼と(なく) ●それと(なく) ●見るとも(なく)
 の諸例は、「あり」の用法中、「事とある」「うたてあり」「かくあれば」等の用法に対応するものであって、詞としての用法と考えることはできない。
《注》「事となくて」は次のように用いられる。
● その事と(なくて)、対面もいと久しくなりにけり(「源氏物語」・若菜下)
● その事と(なくて)、しばしばも聞え承はらず(「源氏物語」・竹河)
 上の例の意味は、「その事無くて」ではなく「たいした事でなければ」の意味である。この用法はまた
● その人とも(なく)、かすかなる脚弱車などは(「源氏物語」・行幸)
● 母方もその筋と(なく)、物はかなき更衣腹にて(「源氏物語」・若菜上)
 等にあるように、非存在を意味するのではなく、「身分のいい人でなく」「いい家柄でなく」の意味である。これらの例は、「あり」の用法の場合も同様で、
● はかばかしき御後見しなければ、事と「ある」時は、なほよりどころなく心細げなり(「源氏物語」・桐壺)
 この「事とある」は、事があるという意味ではなく、重大な事(である)時、あるいは重大な事の時と理解するのが、文の構造に即した解釈である。
 以上のように否定判断を表す「ず」「あらず」は、口語において「ない」を用いるようになってくる。
● 水流れ(ず)→水は流れ(ない)
《形容詞連用形に接続して》 
● 山高(からず)*く・あらず→山は高く(ない)
《「にあらず」「にてあらず」に置き換わったものは》 
● 惜マセ給へき御身ニハ(ナケレドモ)(延慶本「平家物語」)
● 是ハサセル某者ニテモ(無シ)(同上)
《これがやがて次のようになる》
● 人に(あらず)*人ならず→人で(ない)
 以上の「ない」は、陳述を表すように変化したものである。陳述を表すものは、その語源がどのようなものであれ、辞と認めようとするのが私の立場である。
 元来、「なし」は「あらず」に代わるべきもので、「あらず」が詞の用法から辞の用法に移ったことを認めるなら、その代用である「ない」が連用形に接続して陳述を表すことも認めなければならない。動詞未然形接続の「ない」は、形容詞接続のものに遅れて成立したと考えられる。「あらず」に相応する「ない」が否定的陳述として熟した後、動詞未然形接続の「ず」に代用されるようになったと考えるならば、接続関係を異にするからといって、以上の「ない」を形容詞であるという根拠にはならない。
 「ない」を辞とするなら、次のように図解することができる。
● 山は(主語)高く(述語)ない(辞)。・・《山は高く》ない
 「ない」は「山は高い」という事実を否定することを表す。もし、「ない」を形容詞(詞)として考えるならば、図解は
● 山は(主語)高く・ない(述語)
 となり、「ない」は「山」の非存在概念とならなければならない。非存在の概念が「高く」と限定修飾されると考えられるかもしれないが、この文によって理解される事実とは甚だしく遠くなる。この文は山が存在しないことを言おうとしているのではない。さらに次のような文において
● 山はなくない。
 第二の「ない」を詞として解釈することは不可能である。
● 山は(主語)なく(述語)ない(辞)・・・《山はなく》ない
 と解することによって始めて、山の非存在を否定する文意と合致した文法的処理となるのである。ただ、この「ない」を形容詞と考えられる場合がある。ただし、それは「ない」そのものだけを詞として認めるのではなく、辞としての「ない」が詞と結合して、それが全体として形容詞と同様な取り扱いを受けることができるということである。例えば、
● 家の遠く(ない)方は
 この「ない」は、本来、辞であり「家が遠い」を総括してこれを否定しているのだが、この場合は「遠く」と結合して「遠くない」で一つの単位を構成し、主語「家」と次のような関係になる。
● 家の(主語) 遠くない(述語)
 しかし、このような用法は、詞としての「ない」から直接に出てくるのではなく、辞としての用法があってはじめて成立するものである。(後で詳述する)
  
 また橋本進吉氏は、形容詞接続の「ない」は、その間に他の語が介在することがあるが、動詞の場合にはそれがないという。(「新文典別記上級用第20」)
● 寒くは(も、など)ない。
● 流れ(他の語の介在をゆるさない)ない。
 動詞接続の「ない」は、「ず」に置き換わったものであり、動詞と否定の「ず」の結合は、一般には未然形によるが、その中間に他の語が介在することがある。
● 流れ(ず) 
● 流れ(は、も、など)せ(ず)
 否定の「ない」は、この「せず」「ず」に置き換えられたのだから、次のようになる。
● 流れ(は、も、など)し(ない)。
 この助詞「は」「も」「など」の下に現れてくる動詞は、いわば上の動詞の抽象的反復であり、助詞によって遮断された用言への接続を、「す(為)」の反復によって保持しようとする傾向を示したものである。
 この現象は、
● 月明かに(や)。・・・月明かに(は、も、など)あり(や)。  
● 山高き(か)。・・・山高く(は、も、など)ある(か)。
 などの例で知られる。
 このように、他の語の介在によって、新しく現れてくる「す」「あり」は、ほとんど用言の属性概念を抽象して、陳述の表現に代用されたものと考えることができる。「す」もまた、同様な傾向がある。
● 山高う(し)て。
● 辛う(じ)て立出づ。
● 子と(し)てあるまじきこと。
 以上のように考えてくると、動詞接続の「ない」はその中間に他の語の介在が許されないということは必ずしも絶対的ということはできない。そして形容詞接続の「ない」は、元来「あらず」に置き換えられたものだと考えれば、動詞の場合と同様に、陳述を反復して、
● 山は高く(は、も、など)あら(ない)。
● 山は高く(は、も、など)し(ない)。
 などということは、かえって蛇足であるといわなければならない。
 以上、いずれの点から見ても、「ない」に辞としての用法を認めることに不合理な点はなく、これを形容詞として取り扱うことは、むしろ文の理解と文法的操作を乖離させることになるのである。


【感想】
 ここで、著者は「あり」を辞とした同じ考え方で、「なし」もまた辞としての用法があることを述べている。「なし」は、元来、形容詞であって詞に属すべき語だが、次第に否定判断を表すようになった。否定判断は、「ず」「あらず」を用いるのが普通だが、「その事となくて」(たいした事でなければ)、「その人ともなくて」(身分のいい人でなく)のように、有無の意味ではなく、否定の判断として使われることがある。その場合は、辞としての用法と考えなければならない。現代でも「夜となく、昼となく」「それとなく」「見るとなく」のように使われる場合は、詞(形容詞)ではなく、辞(活用のある助動詞)として認めなければならないということが、よくわかった。
 橋本進吉氏は、形容詞接続の「ない」は、その間に他の語が介在することがあるが、動詞の場合にはそれがないといい、●寒く(は、も、など)ない、●流れ(他の語の介在を許さない)ない、という文例を挙げているが、著者は、●流れ(は、も、など)せず、●流れ(は、も、など)しないという文例を挙げて反論しているところが、たいそう面白かった。 
 いずれにせよ、著者の〈「ない」に辞としての用法を認めることに不合理な点はなく、これを形容詞と取り扱うことは、むしろ文の理解と文法的操作とを乖離させることとなる〉という結論には、十分な説得力があると思う。(2017.10.12)

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・35

 「あり」に存在詞としての意味と、判断辞としての意味が存在することは、「て」「に」と結合する場合にも現れてくる。「て」と「あり」の結合。この結合が口語に「た」となった時、
● 昨日見(た)。
● あなたに送っ(た)本。
 上のような「た」は、明らかに辞としての用法だが、
● 少し待っ(た)方がいい。
● 尖っ(た)山。
 のような「た」は、「・・・である」の意味であり、詞としての用法である。
 現在では、「た」は確認的陳述を表す結果、詞としての用法には、むしろ「待っている」「尖っている」というように、明らかに存在概念を表すことができる語が別に生まれてきたが、口語の「た」に上のような二通りの理解が可能なのは、その源流において、存在詞として用いられた「あり」と、判断辞として用いられた「あり」があったことを物語るものである。
《存在概念の詞として理解すべき「あり」》の例
● 残り(たる)雪に交れる(「万葉集」)
● いづこに這いまぎれて、かたくなしと思ひ居(たら)む(「源氏物語」・空蝉)
● 向かひた廊の、上もなく荒ばれ(たれ)ば(「源氏物語」・末摘花)
《確認を表す判断辞として理解すべき「あり」》の例
● さし櫛みがく程に、物にさへて折れ(たる)、車のうちへかへされ(たる)(「枕草子」)● 物くはせ(たれ)ど食はねば(「枕草子」)
《存在詞として理解することが可能な「あり」》(「に」と「あり」の結合)の例
● 吉野(爾在・ナル)なつみの河の(「万葉集」)
● 駿河(有・ナル)ふじの高嶺の(「万葉集」)
● この西なる家には(「源氏物語」)
《存在詞として理解可能な「あり」が、単なる陳述の表現に転換する》例
● うつせみの人(有・ナル)我や(「万葉集」)
● 何有(イカナル)人か物思はざらむ(「万葉集」)
● 晝はながめ、夜は寝覚めがち(なれ)ば(「源氏物語」・空蝉)
● ここの宿守(なる)男(「源氏物語」・夕顔)
《さらに、純然たる辞の用法に発展する》例
● その事(なら)ば、
● 余り(な)ことです。
 以上については、詞辞の転換の原理を述べる際に付け加えることとし、ここでは「あり」に辞としての用法があることを指摘するだけにしておく。


【感想】
 ここでは、「あり」に存在詞としての意味と、判断辞としての意味が存在することについて、述べられている。「あり」が「て」と結合し、口語の「た」になった時、「昨日見(た)」「あなたに送った(た)本」の「た」は明らかに辞だが、「少し待っ(た)方がいい」「尖っ(た)山」の「た」は、「・・・である」の意味であり、詞としての用法である、という説明がよくわからなかった。たしか「吾輩は猫である」の「・・・である」は辞としての用法ではなかったか。その場合とどのように違うのだろうか、という疑問が残った。
 さらに著者は、①存在概念を表す詞としての「あり」の例、②確認を表す辞としての「あり」の例、③存在詞として理解することが可能な「あり」(に・あり)の例、④それ(③)が単なる陳述の表現に転換する例、⑤さらに純然たる辞の用法に発展する例を挙げているが、それぞれの「あり」「なり」(に・あり)を見て、どの例に該当するかを、瞬時に区別することは極めてむずかしいことだと思った。著者は〈ここでは「あり」に辞としての用法があることを指摘するだけにしておく〉と結んでいるので、私もその疑問を抱いたまま、先を読み進めることにする。(2017.10.11)

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・34

 再び形容詞連用形接続の「あり」について考えて見ると、そこには詞としての「あり」と、辞としての「あり」の二通りがあると思われるが、「暖いです」「暖うございます」の「です」「ございます」は明らかに辞としての用法だが、次のような場合はどのように考えればよいだろうか。
● 殿下は中将であらせられる。
● 殿下は中将でいらっしゃる。
● 殿下は中将にておはす。
 上のように用いられた場合、「彼は中将だ」と比べて、「あらせられる」以下のものは、存在の概念を表すものと考えるべきである。
● 私は背が高うございます。
● 殿下はお背がお高くいらっしゃる。
 の例でも、前者の「ございます」は、判断辞の聞き手に対する尊敬による変容と考えられるが、後者の「いらっしゃる」は、表現素材のあり方の表現に関するものであり、主語となる事物が、そのように存在するということを表したものである。素材のあり方の表現は詞に属するものである。上の二例は、表現の外形だけを見れば、同じように考えられるが、それに対する理解を反省して見るなら、前述の区別が認められ、文法的にいえば、一方が辞であり、他方が詞ということになる。「あり」が詞から辞に転換したのと同じように、「いらっしゃる」も辞としての用法に転じることが可能でなければならないはずだが、「いらっしゃる」が、特殊の存在の概念を表すものとして用いられている限り、それは辞に転換しないのであり、辞に転換した時は、もはや特殊の素材についての表現の効果を失うものと考えられる。
 「ござる」は、元来、存在についての敬語的表現に用いられたものだが、後に、場面に対する敬語として用いられてくると、
● 私は背が高うございます。
 と、いうことができても。
● 殿下はお背がお高うございます。
 は、聞き手に対する敬語の表現とはなっても、殿下に対する敬意の表現にはなり得なくなるのである。また、単なる判断として表現するよりも、存在として表現するところに、素材に対する敬意の表現の技術があると考えられ、「行く」より「行きなさる」、「高い」よりも「高くおありになる」の方が一層敬語として価値があることがわかるのである。


【感想】
 ここで著者は、「殿下は中将であらせられる」「殿下は中将でいらっしゃる」「殿下は中将にておはす」の「あらせられる」「いらっしゃる」「おはす」は存在の概念を表す詞とした上で、「私は背が高うございます」と「殿下はお背がお高くいらっしゃる」という二例の敬語文を比較している。前者の「ございます」は判断を表す辞が、聞き手に対する敬意を込めて変容したもの(すなわち辞)だが、後者の「いらっしゃる」は、表現素材のあり方を表現しており、主語となる事物(この場合は「殿下」)がそのように存在していることを表す詞であるということである。
 したがって、「殿下はお背がお高うございます」という表現では、殿下に対する敬意を表せないということになる。なるほど、「ございます」は、話し手が聞き手に対して敬意を表しているにすぎないということがよくわかった。殿下に対する敬意をあらわす場合は「お背がお高くいらっしゃる」でなければならないということである。それにしても、現代社会では、そのような表現をする人は皆無であろうと思うと、本書が著された1941年という時代との差を感じざるを得なかった。(2017.10.10)