梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

続・「頭が痛くなる」話

 〈医師は薄笑いを浮かべ「要するに、MRI検査を受けて異状がないと確認し、安心したいわけですね」と言う。「その通りです」「では、予約しましょう。いつがいいですか」とコンピューター画面のカレンダーを提示する。「一番早ければ、いつになりますか」「10月12日です」「では、それでお願いします」〉ということで、10月12日にMRI検査を受け、今日その結果がわかるということである。診察室に入ると、医師は「では、さっそく映像を見てみましょう」と画面を提示する。「なるほど、古い脳梗塞の痕跡がここにありますね。でも新しい梗塞はありません。異状なしという結果です」。では、やっぱりあの痛みは「頭皮神経痛」だったのかと思っていると、「血圧が高いようですが、治療を受けていますか?」と医師が言う。「60代はずっと低かった(低血圧気味)のですが、最近高くなりました」と答えると、「そうですか。町のお医者さんに相談されるといいでしょう」と言われた。そう言えば、前回診察時、自動測定器ではたしか最高血圧が150台、最低血圧が100台であった。診察終了後、念のため再測定すると「最高血圧186mmHg 最低血圧106mmHg 脈拍数89bpm ノイズ(測定地誤差 少ない)」という結果であった。その数値が何を意味するかは判然としない。蛇足だが、この医師、脳神経外科部長兼副院長ということである。その助言に従って、近所の内科医を受診しようと思っている。 
 一方、肝心の「頭が痛くなる」症状は、毎日「中国電子鍼治療器」による治療(「百会」「風池」「曲泉」「中封」「太衝」「合谷」「外関」というツボをそれぞれ2分間、合計30分弱、刺激)を続けた結果、ほぼ消失してしまった。今さらながら、「自分の症状は、誰にも分からないのだから、自分で治す他はない」ことを実感した次第である。(2017.10.14)

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・37

ホ 辞より除外すべき受身可能使役敬譲の助動詞
 辞すなわち助動詞は、過程的構造についていえば、概念過程を持たない語であり、その表現性からいえば、詞が客体的なものの表現であるのに対して、辞は主体的なものの直接的表現であるといえる。詞は第三者のことについて述べることができるが、辞は主体的なものしか述べることができない。詞と辞の意味的連関についていえば、詞は包まれるものであり、辞はこれを包むものである。
 以上の考えに基づいて、受身可能使役敬譲の助動詞「る」「らる」「す」「さす」「さす」「しむ」は、辞として見るよりも詞として考えなければならない。
 それらを、単に接続の形式の上からだけ見れば、他の辞と同様、独立しない語だが、表現の上から見れば、その性質は他の辞と著しく相違する。
 一般の辞は、意味的に見て、詞によって表現される客体に対する主体的な立場を表現している。
● 花咲か(む)
 「む」は「花咲く」ことに対する想像的陳述である。これに反して、
● 彼は人に怪しま(る)
の受身の「る」は「彼は人に怪しむ」を総括しているとは考えられない。「る」は客体的な「彼」についてのある事柄の表現であって、主体的な何ものについての表現でもない。
 可能の「らる」は、
● 我はこの問題に答へ(らる)。
● 彼はこの問題に答へ(らる)。
 のように、第一の場合は、話し手の可能の表現のように見えるが、それは主体的なものの直接的な表現ではなくて、主体的なものを客体化して表現しているのである。第二の場合は彼についての表現であって、客体的表現に属することは受身の場合と同様である。一般の辞には絶対にこのようなことはあり得ない。
● 彼もこの問題に答へ(む)
 の「む」は、彼の想像ではなく、話し手すなわち言語主体の想像以外のものではない。詞辞の区別をもっぱら概念的表現と、主体的表現との別に求める私の立場においては、語におけるこのような区別は極めて重要である。
 使役の場合、
● 母、子を眠ら(す)
● 甲、乙に物を取ら(しむ)
も、「す」「しむ」は、「母」あるいは「甲」の動作の表現であり、第三者に属することは疑いない。
 問題とされるのは、敬譲の場合である。
● 宮は琵琶を弾か(せ)給ふ。
● 師は喜ば(れる)。
 この用法は話し手の敬意の表現であり、第三者の敬意の表現ではない。上のような敬語は、話し手の敬意に基づいた語には違いないが、語としては客体的な事物の特殊な把握を表現しているのであり、そのような把握を通して敬意を表現していることになるから、語としては、やはり客体的なものの表現として考えてよいのである。(詳しく後述するつもりである)
 主体的な敬意の表現は、
● 花が咲き(ます)。
● 花が美しう(ございます)。
 のようなものであって、これらは、聞き手に対する主体の敬意の直接的表現である。
 一般に敬譲の助動詞と考えられているものは、客体の表現に属するものだから、詞と考えるのが適切である。
 このように考える時、文の文章法的分解もまたこれに対応しなければならない。
● 花(主語) 咲か(述語) む(辞)。 *「む」は辞として主語、述語の外にある。
● 花を(客) 咲か(せ)(述語)む。(辞)*使役の「せ」は述語の中に含まれ、主語の動作を表し、「む」は話し手の想像を表す。
● 彼は(主語) 怪しみ(述語) き。(辞)
● 彼は(主語) 怪しまれ(述語)き。(辞)*受身の「れ」は「彼」についての表現であり、「き」は話し手に関す。
● 彼は(主語) 答へ(述語) ず(辞)。*「ず」は話し手の否定
● 彼は(主語) 答へられ(述語) ず(辞)*「ず」は話し手の否定だが、「られ」は「彼」の可能をいっているのである。 
 辞に属するものは、主語述語の外にあって、これを総括する位置にあるが、受身可能使役敬譲の助動詞は、述語の内部のものと考えるべきで、それは他の詞と同様、それが結合して一つの詞を構成することは、「疲る」が「走る」と結合して「走り疲る」となり、「めく」が「春」と結合して「春めく」となるのと相違がない。異なる点は、それが独立した語としては使用されないといくことだが、独立非独立を語の分類の基準にすることができないことはすでに述べた。(第三章・二・単語における詞・辞の分類とその分類基礎・ハ・詞辞の下位分類)
 例文の意味的連関を図示すると、
● 花咲かむ・・・・《「花咲か」・む》
● 彼は怪しまれき・・・《「彼は怪しまれ」・き》
 「れ」と「怪しま」との関係は、「めく」と「春」との関係と同様に、次のようになる。● 春めく・・・《「春」・めく》
● 怪しまれ・・・《「怪しま」・れ》
 この入子型の構造(後で詳述する)は「怪しま」と「れ」が同一次元のものであり、詞と呼ばれて差し支えないことを示したものである。独立しない詞が、詞の一部となって一語を構成する時、これを接尾語と呼んでいる。受身可能使役敬譲の助動詞も接尾語というのが適切である。「る」「らる」「す」「さす」「しむ」は、「けしきだつ」の「だつ」、「黄ばむ」の「ばむ」、「痛がる」の「がる」、「行きたがる」の「たがる」と同等に、接尾語として扱うべきである。
 富樫廣蔭の詞の玉橋は、大綱を詞と辞に分け、詞の中に「属詞」(タグヒコトバ)を設け、〈属詞ハ本来一ツ詞ニハアラデ、詞ノ下ニ動辞マタ他詞ノ加リテ一ツ詞ノ如クナル〉として、その中に「る」「らる」「す」「さす」を挙げている。
 詞辞の本質から見て、受身可能使役敬譲の助動詞を辞から除外することが、国語の文法組織を確立するためにも必要なことである。


【感想】
 ここでは、〈受身、可能、使役、敬譲の助動詞「る」「らる」「す」「さす」「さす」「しむ」は、辞として見るよりも詞として考えなければならない〉と述べられている。その理由は、主体(話し手)の意識をそのまま直接的に表していないからである。
 それらは他の詞に結合することによって、その詞の接尾語になるという説明が、たいへん分かりやすかった。
 ただ一点、敬譲の場合、著者は〈この用法は話し手の敬意の表現であり、第三者の敬意の表現ではない。上のような敬語は、話し手の敬意に基づいた語には違いないが、語としては客体的な事物の特殊な把握を表現しているのであり、そのような把握を通して敬意を表現していることになるから、語としては、やはり客体的なものの表現として考えてよいのである〉と説明しているが、《語としては客体的な事物の特殊な把握を表現している》ということが、はっきりとは理解できなかった。著者は、この点について「後で詳述する」ということなので、期待をもって読み進めたい。(2017.10.14)

秋日和

◆心友の便り途絶えて秋の暮れ
◆名月や果てなく続く獣道
◆素泊まりの旅も終わりぬ秋の暮
◆恩師吟ず「山川草木」秋の夜
◆秋日和今日の迷いに鍼を打つ
(2017.10.13)