梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「衆院選2017」・《ばかばかしい選挙?》

 安倍首相が衆議院を解散したとき、野党は一斉に批判した。「なぜ今なのか」「何のための解散か」「森友・加計疑惑を隠すため」「内閣改造直後で、大義名分がない」。そうした批判は一応もっとも(正論)だが、そのことこそが野党大敗の要因である。安倍首相は言うだろう。「野党はつねに政権奪取の臨戦態勢を整えていなければならない」。それもまた道理である。野党は解散を千載一遇のチャンスとして攻勢に出る機会を与えられたのに、いつも「批判だけ」で「何でも反対」している野党にとっては、まさに「寝耳に水」の事態となった。おのれの足元を掬われた野党第一党は四分五裂の醜態をさらけ出す。結果は安倍首相の思惑通りとなったが、その手法は文字通り「姑息」としか言いようがない。事前の世論調査によれば、安倍内閣不支持の理由は「首相の人柄が信用できない」が多数を占めていた。国民は、今回の選挙で、その信用できない人物を、再び首相に選んだことになる。何とも「すっきりしない」話だが、それが政治というものである。選挙は「国民主権」の証しではない。有権者は参政権を行使しているつもりでも、実は権力者が国民を支配するための手段に利用されているだけなのだ。もとより選挙区は有権者が決めるわけではない。ゲリマンダー (注・特定の政党または候補者にとくに有利になるように不自然な形で選挙区の境界線を定めること。すなわち、自党の候補者が最小限度の得票数をもって当選し、反対党にはできるだけ多数の死票が出るように選挙区を編成すること。「日本大百科全書(ニッポニカ)より引用)によって、あらかじめ与党有利に区割りされているのだから、「清き一票」などは存在しない。加えて、権力者は選挙によって反対勢力の動向、実態を知ることができる。国民は選挙によって権利を行使しているのではなく、権力者の支配下に置かれることを肝銘しなければならない。しかし、法政大学教授・山口二郎氏は「(前略)選挙で勝利して多数を占めた勢力は、自分たちの政策が国民の総意に基づくと主張するだろう。もちろん、虚構である。しかし、民主政治はそうした虚構の上に成り立たざるを得ないのである。国民の半数だけが投票に行き、そのまた半分の票を得て多数派が権力を握れば、それこそ本物の虚構である。私たちは、虚構を少しでも現実に近づけるために、投票するしかない。さまざまな意見が投票で表現され、多数派がすれすれの勝利を収めるならば、彼らの権力基盤が虚構であることを認識し、現実の民意を恐れ、少しは慎重に行動するだろう。冷笑とあきらめは民主主義を掘り崩す病原菌である。(『本音のコラム』ばかばかしい選挙?・東京新聞10月22日付け朝刊・27面)と述べている。
 私もまた、今回の衆院選を「ばかばかしい選挙」と冷笑し、あきらめている一人だが、そして山口氏が期待する「多数派がすれすれの勝利を収める」ことには遠く及ばず、多数派の圧勝に終わると確信している一人だが、氏の正論・誠意に心打たれて、空しい死票を投じた次第である。(2017.10.22)

「衆院選2017」・野党の《敗因》

 安倍首相は、「森友・加計疑惑」により内閣支持率が低下、このままでは政権維持がおぼつかないと判断、麻生副首相、二階幹事長らの助言によって衆議院を解散した。その構図は先輩・小泉元首相の「郵政民営化」を国民に問う解散にも酷似しているが、今回の解散には「大義名分」が見当たらない。したがって、この時点で、すでに「安倍政権の寿命は尽きていた」のである。「森友・加計疑惑」その一点に争点を絞って戦えば、野党の勝機は十分にあったのだ。そこを狙って小池都知事が「希望の党」を立ち上げたところまではよかったが、その後がオソマツであった。野党第一党の「民進党」前原代表にに擦り寄られ合流に同意、以降は野党勢力の分裂が始まる。民進党は、あわれにもその正体を暴露して、一部は「希望の党」、一部は「立憲民主党」、一部は無所属、一部は「参院民進党」のままといった、文字通り「四分五裂」の有様で、何の役にも立たない。もし、「希望の党」が「民進党」と無節操な妥協をしなければ、国民がこれほど失望することはなかったはずである。たとえ僅差で与党が勝ったとしても、「希望の党、善戦」ということで、次への希望が見えてきたのだから・・・。野党の敗因が、「希望の党」代表・小池都知事と「民進党」前原代表の《野合》にあったことは間違いない。
 今の政治家は、すべて「党利党略」、ひいては自己保身の(私腹を肥やす)ために右往左往している。ある政党は「身を切る改革」と称して、自らの報酬を「何割カット」、被災地に寄付しているなどとほざいているが、それを「偽善」という。もし、本当に身を切るのなら無償で働いてみよ。それが公僕として「国民に奉仕する」あるべき姿ではないか。 いずれにせよ、「衆院選2017」は、政治家連中の私利私欲のために国民の税金を無駄にする茶番劇に他ならない。そんなことには「我関せず」、高見の見物をすることにしよう。(2017.10.17)

続・「衆院選2017」の《構図》

 「衆院選2017」は首相Aと副首相A’の暗躍・私闘によってもたらされた茶番劇である。彼らはおのれの私欲(権力欲)のために国政を私物化しているのである。Aが衆議院を解散したのは、「今なら勝てる」とA’にそそのかされたためであり、A’には首相の座からAを引きずり下ろす魂胆があったことは、すでに述べた。
 それから1週間余りがすぎたが、情勢はA’のもくろみとは裏腹に、Aの優勢が伝えられている。気の毒なのは野党第一党の座から転がり落ちたM、新党を結成したK、そしてEらの面々・・・、「権力の支配は反権力を分断する」という分割統治の原理を絵に描いたような有様で、それに付き合わされる国民もまた被統治者として「主権」を奪われているということである。
 選挙のたびに、私は「棄権」「不参加」を表明してきた。なぜなら、支持する立候補者、政党が見当たらないからである。投票が「主権」の行使であるという詭弁に騙されてはいけない。支持しない立候補者、政党に一票を投じることは、断じてできない、だからするべきではない。それが国民の「権利」である。
 現代の政治は、A、A’、K、M、E・・・、その他、有象無象の「職業政治家」によって私物化されている。彼らの立場は公僕である。国民の生命、財産、安全を保障するために奉仕しなければならない。だが事実は正反対である。当選した瞬間には万歳を三唱し、国民から「センセイ」と奉られ、選良としての虚栄を誇示しはじめる。その姿がいかに貧しく、みすぼらしいものであるかにも気づかない。ひたすら国民に従い、みずからは清貧に甘んじ、辛酸をなめることを厭わない、そうした信条こそが、今「政治家」に求められているのである。
 「衆院選2017」の結果は、すでに出ている。AがA’の奸計を払拭し、K、M、E・・・ら野党の惨敗に終わるだろう。だがしかし、同時にAの実態は「首提灯」、すでに首は胴につながっていないこともたしかである。(2017.10.15)