梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・「梅澤武生劇団」&「鹿島順一劇団」

 「梅澤武生劇団」の芝居に「二人団十郎」という演目がある。その筋書きは要するに、東北の田舎で市川団十郎を名乗る役者(梅澤富美男)と、本物の市川団十郎(梅澤武生)が対立する物語である。田舎の小屋主(梅澤智也)は先代の七回忌興業として、ともに先代が面倒を見た東北の団十郎と江戸の団十郎の競演を試みる。その打ち合わせをしようと二人の対面場面を設定するが、二人とも「天下の団十郎はオレひとりだ!」と言って譲らない。では、どちらが本物か「芸で勝負をつけよう」ということになったが、実力では江戸の団十郎が数段上、「おめえ、舞台をなめてんのか。そんな芸で舞台に立つなんて許せねえ、この芋役者、大根役者、ネギ役者!」と罵倒され、田舎の団十郎はショックのあまり寝込んでしまった。ということで、興業は江戸の団十郎一座単独で開催されることになったのだが・・・。初日は大入り満員、「それみたことか」江戸の団十郎は胸を張ったが、どうも雲行きがおかしい。二日目、三日目からは客足が遠のき始め、まもなく千秋楽を迎えるというのに客足がぱったりと途絶えてしまった。今度は江戸の団十郎が「夜も眠れなく」なってしまった。どうしてだろう?よく考えてみると、「オレの芸はたしかに上手い。でもその上手さは客に飽きられる上手さでしかない。どうだ!という自慢は役者のエゴに過ぎない」ことに気づいた。客は「上手い芸」を求めているのではなく、日頃の疲れを吹き飛ばす「楽しさ」を求めているのだ。そのためには、田舎の団十郎のように「下手な芸」で客を楽しませることの方が大切なのだ。大衆演劇とはそういうものだ、ということが今わかった。かくて、江戸の団十郎は田舎の団十郎のもとを訪れ、謝罪する。「オレが間違っていた。どうかおまえの下手な芸で客を呼び戻してほしい」。その言葉を聞いて、田舎の団十郎「アラ、アリガタヤ。カタジケナシ!」と見得を切る。「よお!下手くそ!」という梅澤武生のかけ声でこの芝居は大団円となる。
 この演目はレコードに収録されており、最近、再び聴く機会があった。懐かしい思いでいっぱいになったが、同時に「鹿島順一劇団」の芝居の数々が浮かんできた。なるほど、「梅澤劇団」と「鹿島劇団」では《集客能力》の差が歴然としている。やがて前者は、殺到する客をさばききれずに、常設の芝居小屋から離れていった。そしてたしかに、私自身も、「大衆演劇の魅力は、芝居よりも舞踊ショー、楽団ショーにある」と思い込んでいた。閑散とした客席で後者の芝居を観るまでは・・・。
 では、「鹿島順一劇団」の芝居は、役者のエゴに過ぎないものだろうか。「大衆演劇」ではないのだろうか。断じて否である、と私は思う。また「上手い芸」だけで成り立っているわけでもない。要するに、チームワーク(呼吸)の「妙」が、芝居を支えているのだ。役者同士、役者と客の呼吸がぴったりと合ったとき、珠玉の舞台模様が現出する。香川県城山温泉での「月とすっぽん」、興が乗り、舞台、袖、客席、舞台裏を縦横無尽に敵と味方が「駆け巡る」殺陣さばきの見事さは、生涯、忘れることはないだろう。  
(2019.2.28)