梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・劇場界隈・オーエス劇場(大阪)

    大阪市営地下鉄(御堂筋線)・動物園前駅の周辺には三つの芝居小屋がある。①番出口を出るとそこは交差点、渡らずに(新世界方面に向かい)「じゃんじゃん横町」を通り抜けた所に「朝日劇場」と「浪速クラブ」、渡って「動物園前商店街」のアーケードに入り5分ほど直進して左折すると「オーエス劇場」だ。劇場や商店街の「人なつっこい」(あきんど気質)雰囲気は全く変わらないが、「界隈」の空気は一変する。ここは「新世界」ではないのである。「朝日劇場」や「浪速クラブ」の周辺は、いわゆる下町の観光地、東京でいえば上野・浅草といった風情だが、「オーエス劇場」の周辺は違う。そう、ここは大阪西成区の「あいりん地区」、昔でいえば「釜ヶ崎」の一郭なのである。通行人の中に「観光客」はいない。流行歌「釜ヶ崎人情」では、〈義理も人情もドヤもある ここは天国 こここは天国釜ヶ崎〉(作詞・もず唱平)と詠われているが、それは「身内同士」の話に過ぎない。余所者、権力者(警察・暴力団)に対しては「敵意」をむき出しにする「人情」なのだ、と私は思う。まさに「一触即発」、すぐにでも「暴動」が起きておかしくない、といった風情であることが興味深い。事実、私はアーケードの入り口で「オーエス劇場はどこですか?」と「通行人」に尋ねたことがあるが、ただ一言「知らん」という言葉が返ってきた。「お前、何しに来た。オーエスも(浪速)クラブも、俺たちのもんや。スッコンデロ!」といった気配が「露わ」なのである。でも私は、10個200円のたこ焼きと70円の「ひやしあめ」(生姜入り砂糖水・自動販売機缶入り)、90円のワンカップ、105円の発泡酒等を調達して、「性懲りもなく」オーエス劇場に突進する。なぜって、劇場の人々、客席の空気は「天国そのもの」に違いないのだから。公演は「浪花劇団」(座長・近江新之介)。芝居の外題は「人情 檻」(原作・長谷川伸)。主人公(座長・近江新之介)は腕のいい大工の棟梁だが、酒癖が悪いのが「玉に瑕」、そのことを自覚して、(自分が入る)檻を作った。いろいろの経緯はあったが、詰まるところ、その「檻」に入って「改心」、断酒を決意するという人情話。棟梁の女房、舅・姑、大工の弟子連中、寺社改築を依頼する侍等々、「役者は揃っている」のだが、お互いの「人情交流」が、今一歩の「出来」だったと思う。それというのも、隣(最後列)に座った中年の男女の「私語」が気障りで、舞台に集中できない。この男女「ただの客ではない」と思って観察していたが、案の定「一座員(女優・おそらく未成年)の身内」であった。男女の気持ちがわからないわけではない。おそらく座席は最後列、だれにも迷惑をかけていないと思っての私語だったのだろうが、せっかくの応援が公演(私演ではない)の「妨げ」になってしまったなんて、彼らにとっては思いも寄らないことであろう。私語に「一区切」りがつくとやっと(大詰め近く)舞台に集中、「しょうもない駄洒落」の連続に大喜びしていたのだから・・・。通常なら、誰か(劇場従業員又は贔屓の客筋)が「静かに!」と注意を促す場面であったろう。さしずめその役割は、隣に座っていた私の役目ということになるかも知れない。だがしかし、である。私がそのような挙に出ることは絶対にない。なぜなら、私自身は「舞台の上」も「下」(客席)も等しく「観劇」しているからである。私にとって、件の男女は「役者」なのである。したがって、今回、芝居の眼目は、①「人情檻」という舞台の景色は、「身内の応援」によって毀された。②座長は「熱演のあまり」そのことに気づかなかった。③結果として「冗長な出来」に終わってしまった。ということであろうか。でも舞台は水物、「まあ、そういうことも、あらあな」と言って気にしないことが肝要と思われる。芝居と違って、幕開けミニショーの舞台は素晴らしかった。トップが 浪花みちやの舞踊「流氷子守歌」、音楽はカラオケで歌唱は座長が担当、以下、順繰りに、「流れ星」(唄・浪花みちや、舞踊・市川トモジロウ)、「港の五番町」(唄・市川トモジロウ、舞踊・浪花真央)、「時の流れに身をまかせ」(唄・浪花真央、舞踊・浪花めだか)、最後は「瞼の母」(唄・浪花めだか、舞踊・座長)というようにリレーしていく。舞踊、歌唱ともに「実力」のある劇団でなければ出来ない企画・演出で、「お見事」という他はなかった。
(2008.5.3)