梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

俳人・金子兜太氏の《卓見》

 「東京新聞」朝刊(26面)、土曜プレミアム・アーカイブ「再読 あの言葉」に、2009年8月7日夕刊に掲載された、俳人・金子兜太氏へのインタビュー記事が載っている。見出しは「命を書くことが戦争への抵抗力」。金子氏は《埼玉県出身。1943年東京帝大経済学部を卒業、日本銀行に入行、44年、海軍主計中尉として南洋のトラック島に赴任。敗戦後、捕虜生活を経て46年に復員。島を去る時のことを詠んだ〈水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る〉は代表句となった》。大学を出て半年で出征。当時、戦争に反対でしたか?という問いかけに《この戦争は米英日が海外にマーケットを求める帝国主義戦争であり何の大義もない、と理屈の上では反対。物量の差で日本に勝ち目がないことも分かっていた。一方で、戦争はやむを得ない、やるからには勝たねばならないという素朴な、肯定的な気分もあったんです。背景には、私が少年期を過ごした昭和初めの山国、秩父の雰囲気がある。どうしようもなく貧しくて暗くて、大人たちは漠然と戦争で日本が勝てば景気がよくなって救われると期待していました。当時の一般的な感覚です。》と応えている。つまり、金子自身も「戦争はやむを得ない、やるからには勝たなければならない」と思っていた。しかし、トラック島に赴任後の体験が、その思いを吹き飛ばした。《(日本からの補給が絶たれたため)武器も自前で調達せざるを得ず、落下傘部隊の少尉の指導で工員さんが手榴弾を作ったことがあった。投げようとしたら、手榴弾は工員さんの手の中で爆発しちゃった。目の前で工員さんは右腕がすっ飛び、背中の肉が白い運河のようにえぐられ、どたんって倒れて死んじゃった。横にいた少尉も手榴弾の断片を心臓に受けて即死。(人が死ぬその瞬間に初めて立ち会って)恐ろしかった。その後二週間ぐらい魚が食べられなかった。血のにおいがむわーっとよみがえってきて。その体験が私を完全に変えた。こんな恐ろしいことになる戦争で、何が勝っただ負けただと。》《(理不尽な死を)目撃した人間にとっても生涯忘れられない。これはいかん。戦争は絶対いかん、と思いました。》この金子氏の《感性》は、人間ならば誰でも共感できる、自然で健全な感性だろう。戦争は、所詮「殺し合い」であり、すべてが「理不尽な死」なのだ。だから、戦争に勝利はないのである。
 金子氏のように戦争を《直接》体験した人は、いずれはいなくなるだろう。しかし、体験しなくても、その恐ろしさ、むなしさ、愚かさを、私たちは「実感」できる。
 にもかかわらず、いまは「新しい戦前」といわれ、再び戦争を始めようとする気配が濃厚である。反戦は、机上の空論にすぎないといった風潮も漂い始めた。
 金子氏は警告している。《今では花鳥諷詠の俳人でも、ただ花や鳥の美しさを表面的に写し取るのではなく、その命のいとおしさを描き取ろういう人たちが出てきました。(略)命を書くようになると、命を守りたくなる。つまり、戦争なんていう大量殺戮には反対するようになるんです。甘っちょろいと言われるかもしれない。だけど、それが戦争への対抗力になる。そう考えています。》
 今こそ、この卓見に耳を傾けなければならない。
そんな折も折り、「自衛隊も米軍も、日本にはいらない!」(花岡蔚・花伝社)という本を見つけた。さっそく読んでみたい。
(2023.6.3)