梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

N子先生の《名文》

 押し入れから中学校時代の「学校新聞」が出てきた。そこには、N子先生の寄稿が載っている。先生は理科の教科担任だったが、放課後、私の駄文に目を通してくださり、丁寧な寸評まで加えてくださった。今、先生の達文を読み返し、一人でも多くの人に読んでもらいたいと思った。以下は、今からちょうど40年前に綴られた、N子先生の名文である。
《戦争の荒海の中で》
 いったい少女時代に自分はどんな様子をしていたのであろう。新聞部から言われて何気なくアルバムを繰ってみた。ところが年を追って貼られた写真は子供から一足飛び大人に移ってしまっている。少女といわれる頃のものは穴のあいた様にぽっかりと抜けているのだ。脱落している時代・・・ちょうどその間隙を埋める様に、あの戦争とそれに続く、敗戦後数年の虚無的な思い出が浮かび上がった。そこではポーズをとって写真を撮すなどという余裕は実際ないに違いなかった。女学校でも体操の時間といえば、分列行進の訓練であり、音楽の時は“海行かば”のコーラスが歌われた。正面玄関には「武運長久」ののぼりがたち、見知らぬ戦場の兵隊さんへ慰問の手紙が書き続けられた。しかしまだ空襲がひどくならないうちは、国をあげての軍国主義のうずの中にも、やはり楽しい学園生活はあって体操と音楽以外はたいていどの教科も好きだった私は、喜びをもって勉強した。ことに首を振り頬を紅潮させて、自己の情熱のすべてを文学に捧げる風に語る国語の先生、英国帰りのミスで、始めから終わりまで日本語厳禁の英語の時間など、憧れを抱いて学問的情熱の片鱗にふれるその雰囲気に酔った。うす暗い化学教室で鶴のようにやせた先生が解く化学方程式の整然とした美しさに、自然界の神秘な規則性を感じて驚いたこともあった。が、戦争はやがてその女学生達をも飛行機の部品作りに狩り出した。吹きさらしの鉄骨の建物の中で終わりのない単調な作業と取り組む辛さもだが、ショックだったのはそこで働く工員さんの異常な顔色の青白さだった。闇物資をかかえ、栄養不良など想像さえしない人達があるのと思いくらべたのである。
 どういうわけかその頃、先生方にすすめられて書いた戦争礼賛的な作文や詩が雑誌等に盛んに載った。“白地に赤きまごころの、日の丸染めし鉢巻きが・・・”と一等入選の勤労学徒の歌を友達が口ずさむのを聞くと、私は得意よりも気恥ずかしかった。チェホフやフィリップなど小説の世界に逃避する心持ちを知ったのはその頃である。
 ピカドンと共に戦争の幕はおり私のロウティーン時代も終わった。けれども当時の胸の痛みが消え去ってはいない様に、原爆症で死ぬ人の絶えぬ日本にまだ「戦後」は続いているのではあるまいかと思いつつ、私は写真のないアルバムを閉じた。〈『K中新聞』1959.10.23〉
(2019.10.23)