梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・20

《第二篇 各論》
《第一章 音声論》
《一 リズム》
イ 言語における源本的場面としてのリズム
 私は言語におけるリズムの本質を、言語における《場面》であると考えた。しかも、リズムは言語の最も源本的な場面であると考えた。源本的とは、言語はこのリズム的場面においての実現を外にして実現すべき場所を見出すことができないということである。それは、音楽における音階、絵画における構図のようなものである。このように考える時、音声の表出があって、そこにリズムが成立するのではなく、リズム的場面があって、音声が表出されることになる。音声の連鎖は、必然的にリズムによって制約されて成立するのである。さらにいえば、単音の結合が音節を構成し、その上にリズム形式が現れるのではなくて、逆にリズム形式が音節を構成し、音節における単音の結合の機能的関係から、単音の類別が規定されるのである。従来音声学的生理学的基準だけで見られた母音子音の類別に全然別個の解釈が与えられることになる。
 音声のリズム的場面への表出は、そのリズム的場面の特質に従って群団化が行われる。この群団化の形式は、それぞれの言語によって異なり、国語はその基本的リズム形式に従って特殊な群団化を構成する。このような群団化のなかで、我々の美的感情を満足させるものが、詩歌的リズムとして取りあげられる。詩歌のリズムとは、我々の詩歌的表現における特殊なリズム的場面である。従来はこのように群団化されたもの(五音、七音)をリズムの単位と考え、それによって国語のリズムを考えようととした(音数律)が、この考えで、日本詩歌の最も普遍的形式である短歌形式あるいは俳句形式を説明することは困難のように思われる。五音七音は、詩歌の進行的リズム形式の単位と見るよりも、詩歌の建築的構成的美の要素となるものであると考えたい。音節数は、リズム的周期で美を構成するのではなく、3:4:5あるいは5:4:3あるいは5:7:5のような、構成的美の要素として価値があるのではないかと考える。
 私は言語のリズムを場面の一種と考えた。しかもそれは言語における最も源本的な場面の一種である。源本的場面とは、音楽における音階、絵画における構図にたとえられるが、他の例をあげれば、それはいわゆる《型》に類するものである。舞の《型》、剣術の《型》である。舞は反射的な手足の運動ではなく、舞う者はある特定の型に自己の運動的表現を拡充していく。いかなる舞も、型のない舞はない。舞は何らかの型によってだけ自らを実現することができるという意味で、型は舞において最も源本的な場面であるということができる。我々は舞そのものを離れて舞の型を認識することはできない。型の舞に対する本質的関係は、舞における場面としての関係である。型は舞の場面だから、舞そのものとは次元を異にした存在である。型が表現を通してのみ観取されるように、言語のリズム形式も言語表現の上にのみ認識されるのだが、その本質は、どこまでも表現における場面として関係があるということに注意しなければならない。木の葉に緑色を見、風に寒気を知覚するのとは異なるものである。
 このように、言語の源本的場面であるリズムは、言語の音声的表出によってはじめて実現され、我々の知覚対象となる。あたかも鋳型に溶鉄を流し込むように、リズムの中に音声を表出していくのである。それと同時に、我々は表出された音声の連鎖から、場面としての国語のリズム形式を考えることができる。それでは、国語のリズム形式とはどのようなものだろうか。


ロ 等時的拍音形式としての国語のリズム
 リズムは通常、刺激によって周期的知覚が成立するが、刺激の休止が却ってリズム的知覚の成因になることがある。これは国語のリズムを考える上で重要である。
 リズムは、音の強弱、高低、長短等によって成立するばかりでなく、音色によっても成立する。
 《ガ》ラ《ガ》ラ 
オドロ《キ》モモノ《キ》サンショノ《キ》
 上の例は、音の同質なもの「ガ」「キ」等の回帰によって、リズム体験の成立する例だが、根本的には「アーイーウーエーオ-」のような音の連呼によっても回帰が知覚される。この場合には、音の刺激から質的内容を捨象した純粋の運動的知覚が等時的に繰り返されることによって、リズム体験が成立すると見るべきである。このリズム体験は、ブランコに乗るときの(単振子運動の)リズム体験と同じである。 このリズム体験は、音の高低、強弱の回帰あるいは質的内容の回帰によって生じるというよりも、さらに基本的なリズム形式ということができる。このリズム形式を等時的拍音形式というならば、国語の音声的表現の源本的場面となるものは、この等時的拍音形式のリズムである。それは、聴覚的には音色の変化に伴う知覚の更新感により、生理的には調音の変化による運動感覚によって、回帰が知覚されるリズム形式である。
 私は国語の基本的リズム形式を等時的拍音形式と考え、一つには音節及び母音子音に対する解釈を試み、また一つにはリズム形式を美化するために取られる調音の変化とリズム形式の群団化がどのような方向に発展していくかという現象を見て、日本詩歌のリズムの特質を考えていきたいと思う。(第六章第一項で述べる)


【感想】
 著者は、言語におけるリズムの本質を、最も源本的な場面であると考えた。一般には、単音の結合が音節を構成し、その上にリズム形式が現れると考えられがちだが、「逆にリズム形式が音節を構成し、音節における単音の機能的関係から、単音の類別が規定される」と述べている。
 また、最も源本的場面を、舞の「型」に譬えている。型のない舞はない。舞そのものを離れて舞の型を認識することはできない。型の舞に対する本質的関係は、舞における場面としての関係である。言語のリズム形式も言語表現の上にのみ認識され、その本質は、表現における場面としての関係にある、ということを述べている。
 さらに、国語の音声的表現の根本的場面となるものは、等時的拍音形式のリズムであると結論している。
 私が受けたの講義の中で、著者は「スワルツバートル」「ケスツックライ」などと発音しながら、「何のことだと思うか」と学生たちに問いかけた。皆、キョトンとしていると、著者は微笑みながら、前者は「相撲取り」、後者は「電灯」だと説明した。つまり、「座ると場を取る」「消すと暗い」という文を、等時的拍音形式を無視して発音したわけである。このように、日本語の表現は等時的拍音形式というリズムが乱れると、通じなくなってしまうという内容であり、本項で述べていることと同じである。
 乳幼児が言語を習得するのに、さかんに「喃語」(アー、ウー、オックン等)を話す段階がある。「喃語」は万国共通であり、どの国の乳幼児も同じことを話しているが、それが「ジャーゴン」(メチャクチャ言葉)の段階になると「違い」が現れてくる。その違いはまさにリズム形式の違いであり、乳幼児は周囲の言葉を聞きながら、まっさきに母国語のリズム形式から学び始めるということが、よく分かった。
(2017.9.20)

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・19

《十二 言語の史的認識と変化の主体としての「言語」(ラング)の概念》
 言語の史的認識は、観察的立場においてなされるものであって、主体的立場においてはつねに体系以外のものではない。主体的言語事実を、排列した時、そこに変化が認められ、しかもそれが時間の上に連続的に排列される時、そこに歴史的変遷を認識することができる。歴史的認識は方言的認識に対立するものであり、後者は時間に対して方処的に認められる変化である。共通することは、それが観察的立場に属することであって、主体的意識には属さないことである。
 主体的意識において認められる言語の異同の現象は、通常、変化と呼んでいる。「咲く」が「咲かない」となり「咲けば」となるのは語尾の変化であって、歴史的変化ということはできない。「買って」を「買うて」というのは方言的差異だが、同一主体に共存する場合は、文体的意義を持ってくる。「咲きて」を「咲いて」といった場合、主体的意識としては前者を文語的表現、後者を口語的表現と考えるが、歴史的変遷ということはできない。一方を古代語の表現、他方を現代語の表現と認めれば、歴史的変遷という認識が成立することになる。客観的に見て同一と思われる二つの現象が、同一主体において共存する場合は、文体的差異となり、そうでない場合は歴史的変遷あるいは方言的差異となることは注意すべきことである。言語の歴史的認識は、言語の史的変遷という事実によって生じるが、それならば史的変遷の主体は何であり、また何によって史的変遷は生じるか。史的認識は、具体的な言語の時間的な比較対照から生まれるものだから、史的認識の根源は個々の具体的な言語事実の中になければならない。ここで、具体的な言語の変遷ということが、どのような事実であるかを明らかにしなければならない。言語構成観は、「言語」(ラング)を主体から離れた心理的実体のように考え、「言語」(ラング)を、変化を受ける主体のように見る。「言語」(ラング)の構成要素である聴覚映像の変化が音の変遷と呼ばれるべきものであって、具体的な個々の音声は、一回毎に消滅するものであるから、これには変遷ということが認められないとする。


◎音声は、あくまで生理・心理的活動の所産であって、人間が生まれてから死ぬまで、毎日繰り返して発しているが、その度毎に止むもので、これには歴史がない。音韻はそれと違って歴史がある。(金田一京助博士・「国語音韻論」)
◎変化に襲われるのは実にこの音韻観念である。唇の上の生理的音声ではない。それゆえ、変化の座は脳裡にあり、口先にはない。(小林英夫氏「言語学通論」)


 このように、音声に対する音韻という観念が現れて、音韻観念の変遷によって言語の音韻史が成立すると考えられるようになった。そこに不合理な点を見出さないわけにはいかない。歴史的変遷は、主体を媒介とする個物と個物との制約連関から成立している。言語音の変遷も同様である。例えば「ここだ」「ここら」の二語をとって見る。甲時代における主体一般は「ダ」と発音していた。乙時代になると、調音部位が次第に後退した結果「ラ」と発音されるようになった。dがrに変わるということは、甲乙両時代における言語主体の発音行為の移動に基づくものである。歴史的認識の根拠は、個々の具体的な言語事実にあると考えなければならない。従って、歴史的変遷の原因は、主体意識と言語的実践に帰着させることができる。すなわち、ある時代のd音の発音部位がr音の発音部位に移りやすい傾向を持っている時、聞き手はこれをrの音声表象に連合し、自ら発音する時は、rの調音法をとる結果、甲より乙への変遷の現象が起こり、ついに全く他の発音部位に移ってしまうのである。しかも、これらの場合、主体的には何らの変遷をも意識されないのである。
 このように言語音の変遷を考えれば、音声に対して、音韻を変化の主体と考える必要がない。音韻が変化に襲われるということは事実に合致しない。
 言語史の基礎観念としても、言語を過程的構造において把握することは重要である。それによって、言語を自然科学的偏見より救い、文化科学の中に位置づけることができるのである。 
 本論は、もっぱら主体的意識における言語の体系について論じるので、歴史的変遷及び方処的差異は、将来の考究に俟つこととした。


【感想】
 ここでは言語の史的認識(史的変遷)について述べられている。
 「言語の歴史的認識は、言語の史的変遷という事実によって生じるが、それならば史的変遷の主体は何であり、また何によって史的変遷は生じるか」。著者によれば、史的変遷の主体は、その時代時代における言語主体(話し手と聞き手)である。言語構成観では、「言語」(ラング)自体が主体として変化するように考えられているが、言語は(自然物のような)実体ではないので、それ自体が変化するというのは不合理である、ということであろう。
 以上で、総論は終了する。次はいよいよ「第二篇 各論」となる。大きな期待を持って読み進めたい。(2017.9.19)

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・18

《十一 国語及び日本語の概念 附、外来語》
 国語の名称は日本語と同義である。国家の標準語あるいは公用語を国語と称することがあるが、それは狭義の用法である。
 国語は日本語的性格を持った言語である。
 日本語の特性は、それが表現される心理的生理的過程の中に求められなければならない。我々の研究対象とする具体的言語に具備する心理的生理的過程は、その過程的形式にこそ日本語的性格が具現されているので、日本語の語として認識することができる。
 敬語は日本語的特性を持っている。inkという外国語も、これがインキとして国語の文法組織、音声組織の中に実現されるなら、すでに日本語的に性格付けられているという意味で、国語化したということができる。
 日本語は、日本語的な過程的構造と、その結合である文法組織によって決定されるのであって、日本語の語詞の総和から成立しているのではない。国語あるいは日本語は、特殊な主体的言語機能とそれによる言語的実現を指す。
 国語を国語たらしめるものは、文法形式ばかりでなく、リズム、アクセント、音声においても明らかに国語的形式ということができる。
 日本語的性格は、民族や国家と相伴うものでなく、社会生活の伸縮によって民族や国家を超えていくものであり、またこの形式の同一ということによって、国語の歴史的認識ということも可能なのである。国語学はこのような日本語の性格を把握して、記述するところにその使命がある。


【感想】
 国語と日本語は同義であり、国語は「日本語的性格を持った言語である」という定義がたいそう面白かった。また、国語を国語たらしめているものは、文法形式ばかりでなく(リズム、アクセント、音声の)国語的形式であるということである。
 いささか同義反復的な表現だが、著者が最も強調したいことは《日本語的性格》であり《国語的形式》ということであろう。
 その具体的内容は「各論」で明らかにされるだろう。期待をもって読み進めたい。
(2017.9.18)