梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

『「自閉」をひらく 母子関係の発達障害と感覚統合訓練』(つくも幼児教室編・風媒社・1980年)精読・47

《第13章 Fくんの場合》(秦野智子)
1.入園時のようす・・・不安定な母子
・6歳0カ月の時、初めて来園した。すんなりと保育室に入り、母親のひざにすわっていた。しばらくすると黒板に石油会社名を書くようにせがむことをはじめた。書いた後は必ず声にして読ませた。その後、ワゴン車に乗り込み押してもらい廊下をいったり来たりする。その最中も絶えずアメ玉をしゃぶり、言語はなく、時々手を顔の前で振り「アヤヤヤ・・・」の奇声を発するのみであった。職員が抱き上げてふりまわすと、喜びも嫌がりもせず、反応はみられなかった。
・家では、水遊び・砂遊び(容器に移しかえる、水面に手で泡をたててそれを見ている)をよくする。
・6歳1カ月から毎日通園。全員での集会時には一緒にいることはなく、人のいない部屋を探して歩いた。トランポリンが好きでやりたいらしいが、誰もいないときしかやらない。来て数日は戸外の日陰で母親と2人で、何もせずにすわっていることが多かった。なぜここにいなければならないかという風で、機嫌も悪かった。
・職員が振り回すと笑うが、要求はしてこなかった。
・身体接触、手を引いての要求は母親に対してのみだが、職員がかかわりを持とうとしても拒否はみられなかった。
・給食は食べずに(全員でいる所には入ってこれずに)いつも母親と2人でいるというようすであった。
・児童相談所の判定は「言語発達遅滞、精神発達段階は中・重度遅滞域」であった。
◆生育歴
・父(35歳)、母(29歳)、姉(8歳)の4人家族。
・在胎は10カ月、胎動を感じられなかった。出生時、母親は23歳。吸引分娩で血腫をおこし注射でそれをぬいた。生下体重3100㌘。黄疸普通。混合栄養(母乳1カ月)。身体発達は普通。生後1カ月半にヘルニアの手術。その後熱を出し1回のみだったがひきつけをおこした。現在、大小便は自立しているが、便所ではせず、戸外でのみ排泄していた。指しゃぶりの癖がある。
◆相談歴
・3歳 H小学校言語治療教室
・5歳 M保育園(慣れない部屋で入室しない)
・6歳 児童相談所で「遠城寺式乳幼児分析的発達検査」(・移動運動2歳3カ月 ・手の運動1歳6カ月 ・基本的習慣3歳0カ月 対人関係1歳2カ月 ・発語0歳10カ月・言語理解1歳6カ月)
・6歳1カ月 つくも幼児教室入園
◆発達評価
・対人関係:6カ月~7カ月(人見知りが始まり、母親に強い愛着を示す)
・全身運動:21カ月~24カ月(ころばずに走る)
・手の運動:21カ月~24カ月(積木を5~6個積む?)
・言語表現:3カ月~4カ月(喃語を楽しみ、笑い声を立てる)
・言語理解:15カ月~18カ月(50~60語と二語文を理解する)
・視覚機能:21カ月~24カ月(ごく簡単な図形をどうにか識別する?)
◆母子関係(A・育っていない B・育ちつつある C・かなり育っている)
A・母親にあまり寄りつかず、触れられるのを避けようとする。
A・母親が見えなくなっても平気で、探さない。
A・見知らぬ場所でも、手を放すとどこかに行ってしまう。
A・痛いとき、こわい思いしたような時でもあまり泣かない。
B・表情が豊かで、元気な声で泣き、笑う。
B・母親と視線がよく合い、呼ばれると振り向く。
A・母親の動作や発声をまねしようとしない。
A・他の子どもといっしょに遊ぼうとしない。
◆感覚診断
◎平衡感覚が鈍い(・トランポリン、ハンモック、逆さ背負いを喜ぶ ・肩車ではねるのを喜ぶ ・バスなど乗り物が好き)
◎皮膚感覚が鈍い(・誰にでも抱いてもらおうとする ・口の周りにふれられるのえお喜ぶ ・砂をいじるのが好き ・コンクリートのギザギザが好き ・ブラシは感じない ・怒った時などには頭をコンクリートに2、3回ぶつける ・くすぐられるのを喜ぶ ・バイブレーターを喜ぶ ・水遊びが好き)
◎味覚が鋭い(・食べ物の好き嫌いが多い ・スナック類大好き ・給食は全く食べない)
◎嗅覚が鈍い(・臭いをかいでみる)
◎聴覚が鋭い(・人の話し声などガヤガヤをきらう)
◎視覚が鋭い(・手を目の前でヒラヒラさせる ・石油のメーカー名を見て言わせる ・手のひらから砂の落ちるのをじっと見る)


2.指導方針・・・平衡感覚と皮膚感覚の刺激から
・対人関係において、母子関係を十分に育てる(母子通園)。
・多動・自閉的傾向の要因として考えられる感覚障害に対する働きかけ(平衡感覚、皮膚感覚を中心に刺激を与える)をする。
・平衡感覚においては、トランポリンは自発的行動に任せ、ふりまわし、ハンモックを主として行う。皮膚感覚は、ブラッシング(触覚)、バイブレーター(振動覚)、強く抱きしめる(圧覚)などをとりいれる。
・ふりまわしは、母親と職員で交代で行う。保育全体を通して、禁止・強制はなるべく避ける。集団への参加は無理強いしない。


3.経過・・・くつ下をはいた!
・入園当初は、母子共に慣れず、母親の不安、動揺がFくんにもかなり影響しているように思われた。母親と2人で過ごすことが多く(集団場面を避け)、給食の時間になると、食べずに帰ろうとしていた。
・強く抱きしめる、さかさづりなどで、体がしっかりと接触することを喜んだ。
・手に口をつけ強く息を吹きかけ、その息がもれないようにすると喜び、笑って手を出して要求したり、道路の壁のザラザラを好んでさわっていた。
・痛覚は鈍く、ブラシで強くこするとはじめて気づいたという風であったが、つねることはいやがった。
・砂、水遊びが大好きで、放っておくといつまでもやっていた。顔つきは、人をよせつけないほど厳しいものに変わっていた。
・トランポリンで一緒に跳ぶ時は、激しくすると喜んだ。初めてハンモックに乗せた時は抵抗したが、回を重ねるに従い、自分から乗ってくるようになった。激しい揺れを喜んだ。
・階段ですわっている時、足音を立てて追いかけると声を出して笑い、追ってくるのを待っているようすが見られた。
・通園バスの中からガソリンスタンドを見つけ指さして母親に読ませ、バスのコースを変更すると怒った。
・夏休み中、デパートで迷子になり、母親の姿に気づくと泣き出した。
・家庭訪問した時、一日中テレビから離れられないようだった。いやなCMが始まるとチャンネルを変えに来た。テレビの前のテーブルに空き箱をいくつか並べ、その向き、順序をくずすとあわててなおしに来た。サイダーとジュースをコップとビンに移しかえながら1口ずつ飲み、その間におせんべいの周りをなめた。「ちょうだい」と言うと気が向いたときのみくれた。
・9月初旬に個別指導のために居残りがあった。通園バスに乗れなかったので、怒り激しく泣き、それ以降、昼食時になると、バスの駐車場に泣きながら走り、自分の席に座ると満足するという日が続いた。
・10月からは職員が付き添い、昼食時、駐車場に出さないことにした。好きなハンモックに誘ったり、好きな歌を歌ったりした、最初は泣き叫び抵抗を示したが、日を追うに従いおさまってきた。太鼓をたたいたり、おもちゃの電話を押すなどの活動が見られるようになった。カメラが好きで、写そうとすると寄ってきてレンズをのぞき込む。
・黒板に「千葉銀行」と書いてもらいたくて、母親を隣の部屋に連れて行き、そこの黒板に書いてある「千葉銀行」を読ませ、もとの部屋に戻って黒板を指差し、書いてもらって満足した。
・水遊びで着替えの時、職員がおなかに口を当て強く息を吹きかけると、声をたてて笑い、職員の頭をおなかに押しつけ、何度も要求してきた。
・水遊び、トランポリン、ハンモックの活動がめだち、バイブレーターをあまりやらなくなった。
・普段は素足だったので、くつ下をはかせることを試みた。はいてみせると、素直に足を出してはいてしまった。母親は驚いていた。この日、初めておにぎりののりだけ口にした。
・1週間後にもパンとジュースのみだが食べた。
・10月末、便所の便器で排尿した。
・11月から、机やイス、遊具になぐりがきをするようになったので、ホワイトボードを与えた。一日中、それに向かうようになった。固執傾向がみられるようになったので中止した。しばらくは泣いていたが、黒板や振り回しであきらめさすことができた。
・降園の時間感覚をつかんできた。


4.現在のようす・・・自発的な働きかけが出る
・Fくんの方から振りまわしを求めてくる。回数が足りないと怒る。
・自分の方から他の遊びに入っていく。他児がハンモックをやり始めると、必ず乗ってくる。
・対人面でも、職員に対する自発的な働きかけが多くなった。(振りまわしの要求、職員のメガネをはずす、自分から顔を近づける、くすぐりを期待するなど)
・母子関係も育ちつつある。(迷子で再会すると泣き出す、手をつなぐ、気に入らないと母親に不満をぶつけるなど)
・園では、遊びの範囲、種類のひろがりがみられるようになった。食べ物の絵本がすきになり手放さないようすも見られた。
・偏食は続いているが、給食時、部屋から出て行くことはなくなった。
・クリスマス会の時、部屋を暗くすると入ろうとしなかった。視覚的に暗い部屋はこのまないようである。


5.考察・・・まず母親の心の安定を
・入園して5カ月、母親を意識しはじめ、名前を呼べば振り向くか、立ち止まるようになった。何がFくんの目に映り、心をとらえたのだろうか。
・母子関係が成立しにくい要因を、子どもの側だけに求めていくことは片手落ちのようにも一見思われる。Fくんに対する態度、考え方など多分に不安定であったと思われる。母親自身の心の葛藤をそのままFくんにぶつけてしまうこともあったらしい。母親の心理状態がそのままFくんに反映してしまったことも考えられる。
・しかし、こうした養育態度は、子どもの側からの問題から二次的に生じてくるのであって、誰しも母親を責めることはできない。母親がこの危機を乗り越えるためには周囲からの援助こそが必要なのである。
・入園後、母親は少しずつ明るくなり、Fくんに対する態度も自然と安定してきた。Fくんを理解しようという積極的な姿勢がみられるようになった。母子通園により、Fくんの遊びにはほとんど母親が参加し、黒板に2人で向かっているようすがしばしば見られる。家庭では持ちにくい客観的な目も、園に来ることで持ちやすくなったのではないだろうか。
・禁止も少なくなり、笑顔がみられるようになると、それが母親の還元されるという風によい方向へと伸びてきたように思われる。こうしたくりかえしで、Fくんの気分に左右されない安定した母親の精神状態が保たれることにより、母親への信頼が生まれ、甘えが生まれてきたようである。
・父親の存在も見のがせない。「何でうちのFだけ・・・」「自閉症ではないかしら」と動揺する母親を「そんなことはない」とずっと励まし続けてきたということである。それもまた、母親の明るさ、Fくんの笑顔の隠された大きな柱とはいえないだろうか。
・園での感覚的アプローチ(振りまわし、トランポリンなど)で、母親や職員に対して要求してくるという行動がみられるようになったということは、対人という意識が芽生えはじめたとは言えないだろうか。
・固執傾向(水遊び)もいくらかやわらいできているようにも思える。
・遊びについては、水遊び、字を書かせるだけだったが、トランポリン、ハンモック、ワゴン車へと拡がり、絵本、積木に対する関心も出てきている。
・手先や言語理解力などはある程度の能力を持っているように思われるが、不安定なため判定しにくかった。しかし、積木を自分から積むようになっており、母親や職員との関係に落ち着きがでてきたのではないだろうか。感覚的なアプローチも一役かっているのではないかと思われる。
・やっと人との関係が芽生えてきた段階だが、それをひとつのステップと認め、その上にまたひとつと重ねていきたい。Fくんの目に、好奇心いっぱいの輝きが加わるように、感覚的アプローチを続けていくとともに他の領域でのアプローチも加えていくつもりである。


【感想】
・児童相談所の判定は「言語発達遅滞、精神発達段階は中・重度遅滞域」であり、Fくんに「自閉的傾向」があるとは記されていないのはなぜだろうか。また、3歳時から、小学校言語治療教室に通っているが、そこではどのような指導を受けたのか、判然としなかった。
・生育歴では、身体発達は順調であり、排尿便も自立していることから「言語発達遅滞」の要因が何であるかはよくわからない。言語理解は二語文程度(1歳レベル)、言語表現は声(笑い声、泣き声)のみ(0歳レベル)である。著者は「考察」で、母親の養育態度(不安)、考え方の不安定を要因として挙げているが、一方、その養育態度は「子どもの側の問題から二次的に生じてくる」とも述べている。
・しかしともかくも、5カ月間の通園によって、Fくん母子の間に大きな変化が現れたことは明らかである。第一に、母子関係が改善されつつある。「痛いと時、こわい思いをした時など、母親に泣いて訴える」「見知らぬ場所に行くと、母親のぴったりとくっついて
離れない」「母親が見えなくなると必死に探し回り、再び顔を見ると安心する」「母親にベタベタとまつわりつく。母親のすぐそばにいたがる」ようになってきた。第二に、Fくんの遊びの種類が多様になり、対人関係が芽生えてきた。大きな声で泣き、笑い、表情も豊かになってきた。
・母子通園により母親の養育態度が安定してきたこと、子どもに対する「感覚統合訓練」が功を奏したことの結果であると、私も思う。
・ただ、もしそうした取り組みを3歳時から始めていたら、さらにめざましい成果が得られたのではないだろうか、と思うと残念でならない。
・また、著者は入園時のようすを「不安定な母子」と評しているが、母親の実態についても詳しく知りたかった。母親の不安定・不安は何に起因するのか、「親子関係診断テスト」を実施した場合にはどのようなプロフィールを示すのか、子どもへの接し方・かかわり方にはどのような問題があったのか、それがどのように改善されたのか、などなどが明らかにされれば、よりFくんの問題を的確に理解できるのではないか、と思った。


◎ 以上で、本書の精読を終了する。今から36年前(1980年)に刊行されたものだが、内容は斬新であり、多くの示唆を与えていただいた。阿部秀雄氏はじめ各章を執筆された著者の方々に、あらためて感謝申し上げたい。ありがとうございました。
(2016.5.29)