梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

『自閉症児のための抱っこ法入門』(阿部秀雄・学習研究社・昭和63年)

 人の一生は「産声」から始まる。「産声」とは、肺呼吸が始まったことを現す証しに他ならないが、いわゆる「オギャーオギャー」という「発声」のことである。以後、乳児は頻繁に「オギャーオギャー」という泣き声を発するようになる。親は、それを聞いて、乳児の状態を観察、授乳、おむつの取り替え、衣服の着せ替え等々の介護を行う。乳児は出生時のストレス、胎内から大気圧下への(生育)環境の変化によって、様々な「不快感」を感じる。それを「取り除いてほしい」と「泣いて」訴えているのである。このことは、人の一生を左右するほど重要な出来事である、と私は思う。(言うまでもなく、人は「誕生日」以前に生まれている。受胎から出生までの(いわゆる)「十月十日」、胎児として胎生期を過ごすわけだが、その間、順調に発育したか、安定していたか、十分に「快感」を味わっていたか。)人の(誕生後の)一生は、胎生期時代(胎内)の「安定・快感」を求めて、大気圧下の「不安定・不快感」を「取り除いてほしい」と訴えることから始まるのである。つまり、乳児はまず「不安定・不快感」を感じ取らなければならない。そして、それを「泣いて」訴えなければならない。昔から「寝る子は育つ」と言われているが、一方「泣く子は育つ」とも言われている。「不快感」の中には、空腹、おむつ、痛み、驚き、眠気等々が含まれているとすれば、双方は矛盾しない。いずれにせよ、乳児の発達はこの「不快感」から出発するということを見落としてはなるまい。「不快感」は、やがて「怖い」「淋しい」「悲しい」「つまらない」「むずかり」「嫌い」「いや」「嫉妬」「不満」「怒り」といった感情に分化していく。親は、そうした感情が、乳幼児の(円満な)発達にとって妨げになると思うかもしれない。しかし、それは誤りである、と私は思う。「楽しい」「うれしい」「おもしろい」「おいしい」「好き」「満足」といった「快感」は、「不快感」の裏返し(表裏一体)として生まれるからである。ややもすれば、親はその「快感」だけを与えようとしてはいないか。乳幼児が「静かにしている」「手がかからない」「おだやかである」「素直に従う」。そのことだけで満足してはいないか。例えば、紙おむつ、例えば哺乳びん、例えばベビーベッド、例えばベビーカー、・・・等々。「親の都合」で、「育てやすい子」にすればするほど、乳幼児の「不快感」は心中に押し込められ、表出されない。要するに「我慢」「辛抱」を強いられるのである。「我慢強い子」「泣かない子」「人見知りをしない子」「親の後を追わない子」、そうした乳幼児の中には、胎生期時代、十分な「快感」を味わえなかった、その「不安定・不快感」が今も続いている、しかもそのことを訴えることができない、また生後、「親の都合」で「快感」ばかり与えられ、「不快感」を訴える「機会」が失われた、といったケースがたくさんあるのではないだろうか。
 したがって、まず乳幼児に「不快感」を与えること、次に、それを「取り除いて」と親に訴えることができるようにすること、さらに、取り除いた後の「快感」を親と一緒に喜べるようにすること、が肝要である。 
 以上が、『自閉症児のための抱っこ法入門』(阿部秀雄・学習研究社・昭和63年)という著書を読み始めた後の感想である。(2013.9.9)