梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・52

第五章 敬語論
一 敬語の本質と敬語研究の二の領域
 国語はいかなる場合においても、敬語的制約から免れることはできない。敬語はほとんど国語の全貌を色づけしているものだから、国語現象の科学的記述と組織を企てようとすれば、まず国語を彩るこの多様な色彩様相に着目してれを正当に処理することを考えなければならない。敬語は、国語研究にとっては重要な課題である。
 敬語について論じようとするなら、まず敬意の表現とはどのようなことか、その本質、意味について深く考えておかなければならない。
● 暑いね。
● 暑うございます。
 の前者には敬語が省略されており、後者では「ございます」が敬語であるといわれていることと、
● 庭を見た。
● 庭を拝見した。
 の「拝見し」が敬語であるといわれることは、著しい相違があることに注意しなければならない。「ございます」は、話し手の聞き手に対する敬意の表現であり、敬意そのものの直接的表現だが、「拝見し」には聞き手に対する敬意は含まれていない。もし敬意を表そうとすれば「拝見しました」と云わなければならない。「拝見し」は、「見る」という行為ちは異なる行為として、言語主体に把握され、表現されたものと考えなくてはならない。この概念把握において、聞き手でない、素材の見る者と見られる者との間に、上下尊卑の差別が意識され、それが「拝見し」という語によって表現されるところに、敬語といわれる所以があるのである。「ございます」は、言語主体の直接的表現である判断が、聞き手によって制約されたものであり、(第三章で述べた)辞に関するものである。これを言語の主体的表現に現れた敬語法ということができる。これに対して「拝見し」は、言語の素材の表現すなわち詞に関するものであり、これを言語の素材の表現に現れた敬語法ということができる。敬語においてまず、以上の二つの領域を区別し、それぞれの特質を明らかにすることは敬語研究上重要な点であって、これを無差別に取り扱ったところに、従来の敬語研究の欠陥と混乱があったのである。  
 詞における敬語、辞における敬語は場面の相違によって成立する。場面の制約によるものが敬語であるとする時、次に問題になるのは、敬意の表現の意味である。敬意の表現といわれている事実に、以下の三者を区別できると思う。
(一)敬意をさし表す表現、敬意を客体化し、概念化する表現
「甲は乙を敬う」「甲は乙を尊敬する等における「敬う」「尊敬する」という語は、敬意の概念の表現であって、主体の敬意のみならず第三者の敬意を表せるが、これらを敬語ということはできない。 
(二)敬意に基づく表現の制約
  例えば私が人の馳走になった時、「食います」といわないで「いただきます」といったとすれば、言語の表現の仕方が私の敬意に基づいて制約されていると見ることができる。「甲はいただきます」という場合も同様で、それは甲の敬意の表現ではなく、話し手の敬意がそこに寓されているのである。それは概念内容として敬意がこの語にあるのではなく、このような語の選択において敬意が表現されていると見るべきである。
(三)敬意の直接的表現
 私が長上の前に出た時、帽子を取って恭しく頭を下げたとすれば、それは敬意そのものの直接的表現である。言語において、主体的なものの直接的表現は、辞によってなされるから、敬意の直接的表現は辞に属するものと考えなくてはならない。
 以上の中で(一)は、敬意の概念的表現であり、場面の制約に基づく主体的な敬意の表現とはいえないので、敬語とはいえない。敬語は(二)(三)の場合に限られる。
 敬語はつねに言語主体の敬意の表現に関わるものであり、その中に、敬意に基づく表現(二)と、敬意の直接的表現(三)と区別でき、前者は詞に属し、後者は辞に属するということができる。このうち、明らかに主体的敬意の対象を知ることができるのは、(三)の場合だけである。それは場面(聞き手)に対する敬意と同時に、主体の聞き手に対する謙譲を表現したものである。
● 雨が降ります。・・ますか。・・・ません。・・・ませんよ。   ● 暑うございます。・・・ございますか。・・・ございません。・・・ございませんよ。 これらに対して(二)の場合には、必ずしも敬意の対象を詮索することができない。敬意の対象を詮索することが、敬意的表現の本質を明らかにする上での、大きな障碍となるだろうことに注意しなければならない。なぜなら(二)の場合の敬語は、必ずしも敬意の対象を重要な要素とするのではなく、むしろ事物の概念的把握の上に、敬意が認められるからである。  
 松下大三郎氏は、動詞の待遇について述べられ、敬意の対象の所在を、動詞の主体、客体。所有、対者等に求めて詳細に分類されている。(「標準日本文法」)
● 先生に差し上ぐ。
 といえば、客体である「先生」を敬うから客体待遇であり、
● お帰り遊ばさる
 といえば、「帰り」という事柄の所有者を敬うから、所有待遇であるとする類いである。
このような敬語の分類は、一見極めて合理的に見えるが、敬語現象のすべてに妥当するとはいえない。
● (私は)あなたに差し上げます。  
● (私は)お宅に明日上がります。
 上のように「差し上ぐ」「上がる」が話し手の動作の表現となった場合、敬意の対象が明らかになったと考えられるが「差し上ぐ」「上がる」が話し手の聞き手に対する敬意の表現であると考えるのは誤りであり、敬意は「ます」という語によって表現されているのである。「差し上ぐ」「上がる」という語は、客体化され、素材化された主体と聞き手との上下尊卑の関係の認識から、これらの動作を特別の概念において把握したことを表現しているのである。ある者に対する敬意の表現というよりも、ある者とある者との貴賤上下の関係の表現という方が適切である。
● 甲は、乙に、差し上げたでしょうか。
● 甲は、乙の所に、上がったでしょうか。
 などと表現された時、話し手の乙にに対する敬意の表現と考えられるかといえば、必ずしもそうではない。これらはむしろ甲と乙との関係の認識に基づく、動作の特殊な把握の表現と考えるのが適切である。そこには甲に対する軽視と同時に、乙に対する尊重とが表されているのであって、甲と乙との上下の関係の認識に基づいて動作が表現されているといえるのである。
● (汝は)近う参れ
 この「参れ」について敬意の対象をいうなら、それは動作の客体に対する敬語であり、この場合「参れ」の客体は「我」であって言語主体自身である。主体が自らを敬うということはどのようなことを意味するか。
● 「御飯をいただきなさい」(話し手は母、聞き手は子)
 母が母自身に、あるいは食事に対して敬意を表現していると考えるのは不合理である。このような不合理は、敬意に基づく事物の概念把握の表現を、敬意そのものの表現のように考えて、敬意の対象を詮索するところから生じると思うのである。
 以上を要するに、敬語には二つの領域があって、一つは言語主体の直接的表現に属するものであり、敬意の対象は場面(聞き手)である。二つは、場面の制約に基づくものではあるが、素材の認識把握の仕方に関するものであって、その根柢には素材に対する上下尊卑の関係に対する識別が存在し、それゆえに敬語と称することができるが、ある対象に対して敬意を表現しているものではない。
【感想】
 敬語といえば「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」等に分類する程度の知識しか、私にはなかったが、著者は敬語を二つの領域に分類する。その一は、言語主体(話し手)が場面(聞き手)に対して直接的に敬意を表現する。その対象は、当然「聞き手」である。その二は言語主体の素材に対する上下尊卑の関係の識別によるものであり、ある対象に対して敬意を表現している物ではないということである。
 その一の例は、「・・・です」「・・・ます」「ございます」等であり、辞による敬意の表現である。敬意の対象は「聞き手」である。その二の例は「拝見する」「いただく」「上がる」「参る」等であり、詞による敬意の表現であり、敬意の対象は必ずしも「聞き手」ではないという説明が、たいそうおもしろかった。
 著者は、「(私は)あなたに差し上げます」という文を例示し、話し手の敬意は「差し上げ」という語ではなく、「ます」によって表現されているという。「差し上げ」という語は、「客体化され、素材化された主体と聞き手との上下尊卑の関係の認識から、これらの動作を特別の概念において把握したことを表現しているのである。ある者に対する敬意の表現というよりも、ある者とある者との貴賤上下の関係の表現という方が適切である」と述べている。なるほど、「私」は「あなた」を目上の人と識別しているから「差し上げ」という語を使ったのだということが、よくわかった。また、「甲は、乙に差し上げたでしょうか」という例文では、話し手が乙に敬意を表しているのではなく、甲よりも乙が目上だと識別しているにすぎないという関係を理解することができた。
 辞による敬意の表現は、対象が聞き手なのでわかりやすいが、詞による敬意の表現は、対象を詮索することが難しいという著者の見解は、興味深い。(2017.11.24)