梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・51

三 意味の表現としての語
 言語主体の事物に対する意味作用はどのように成立し、どのように言語に表現されるのだろうか。ここでは、意味そのものの成立の条件について論じようと思う。
 意味は言語主体の素材に対する関係によって規定される。一本の枝が「杖」と表現されるためには、主体の特殊な状況(山道を登りつつ疲労して杖を求めていたという状況)によって、一本の木の枝が杖として意味されたのである。意味作用に対する制約は、素材に対する主体の立場によるばかりでなく、主体の場面(聞き手)に対する立場からも制約されてくる。例えば、厳粛な席上であることについて語るとか、ある特定の人にだけ理解してもらいたいという意図で語るとかいう場合には、主体は場面に対して特殊な立場にあるといえる。このような場合には、必然的に素材に対する主体の意味作用も異ならざるを得ない。厳粛な場面あるいは人を憚るような場面においては、物を直接的に指し示すということが憚れる結果、しばしばこれを他の概念で把握するか、さらに広い概念で把握するのが常である。
● (例の件で)お伺いしました。
● (おもしろくないこと)がありまして、
● (あれ)はどうなさいましたか。
 上の( )の語は、特定の事件を表現するように意味が限定されているのではなく、借金とか、詐欺とか、痴情関係とかの事件を、直接に表現することを避けて、広い曖昧な概念で把握したのである。「わずらい」、「お加減が悪い」の「お加減」というような語も、物に対する直叙をさける気持ちから生まれたのであって、このような語が成立する根柢には、場面に基づく素材に対する意味作用の制約が存在するのである。
 意味的把握の種々相は、以下のように分類することができる。
《比喩》
 素材を素材以外のものとして把握する時、尋常一様の概念的把握を離れた表現が成立する。
● 木の葉が(舞う) 波が岸を(噛む) (錦)の山  春が(訪れる)
 上の( )の語は、言語主体が対象に対して特殊の意味的把握をしたことを表現している。一般には「木の葉が散る」と表現するが、「散る」より「舞う」へ素材の概念的把握が発展する時、比喩ということができる。比喩が文学的表現において優位を占めるということも、主体の素材に対する観察、味到を根柢とするからであって、単なる語の選択や修飾によるものであれば、比喩としての価値が低いものである。
《忌詞》
 場面に対する主体の制約に基づいて表現される語であり、「忌む」ということは、場面に対して、主体が素材を直叙することを忌むことから成立する。
● 洗面所(便所) 珍しきこと(妊娠)
 比喩と忌詞とは互いに排斥し合う類別ではなく、前者は表現技法の名称であり、後者は表現意識から名づけたことである。
 忌詞の場合、素材と移行された概念の間には、連想で連なるか、反対概念として対立するか、何かの連繋がある。「血」を「汗」、「経」を「染め紙」というのは前者であり、法師を「髪長」、病を「やすみ」(病苦が鎮静すること)というのは後者である。
《隠語》
 特定の間柄の人だけに理解されて、他人に理解されないようにする表現である。他人に理解されないようにするという主体的意図に基づいて隠語と称される。隠語の技法は、一般の理解を防げればよいので、文字、音声についても技巧が用いられる。音声を転倒させたり、間に音を挟んだりするのもそれで、このような習慣を理解しているもののみに通じるのである。外国語がしばしば隠語の役目をすることは、医者の間ばかりでなく一般にもあることである。
《敬語》
 敬語は場面的制約に基づく言語の表現として、著しいものだが、第五章で詳説する。
《異名》
 異名は、同一事物に対する異なった意味的把握の表現であり、それを異なった語ということができる。
● あふぎ(扇)・すゑひろ(末廣) そくはつ(束髪)・ひさしがみ(庇髪)
すりばち(摺鉢)・あたりばち(當鉢)
 同義語は、本質上異なった意味を表す語であって、しかも同一事物を指すことができる語ので、同義語といったのであろう。その場合意味は音声形式に対応する内容的なものを意味していることになる。
 漢字のような表意文字は、言語の音声形式を変えることなく、文字のみによって意味の変化を表すことができる。その場合、意味のみが相違して語は同一であると見るのがふつうである。
● てらこや→寺子屋→寺小屋
● ろうにん→糧人→浪人
● うがひ→鵜飼→嗽 
● かくこ→確乎→確固 
 なお万葉集等に「あらし」を「荒風」「荒」「下風」「冬風」などと記載したのも表意文字による同一物に対する異なった意味的把握の表現であるということができる。


 以上のように、意味作用は、主体的作用として、異なった事物を言語的に統一するものであり、また同時に同一事物に対して異なった新語を発生させる因となるものである。
【感想】
 著者は、「語は事物に対する言語主体の意味作用を表現している」とした上で、その意味作用はどのようにして成立し、どのようにして言語に表現されるか、ということについて述べている。意味は言語主体の素材に対する関係(立場)、主体の場面(聞き手)に対する立場によっても制約される。厳粛な席上で語る、特定の人にだけ理解してもらいたいという意図で語るというような場合には、素材に対する主体の意味作用も異ならざるを得ないということである。素材を直接に表現するのではなく、いわゆる「遠回し」に「ぼかして」、あるいは主体独自の個性的な「言い回し」で表現するのである。
 その方法は多様であり、著者は「比喩」「忌詞」「隠語」「敬語」「異名」等の例を挙げている。その中で、「異名」という表現の内容が、私にはよくわからなかった。著者は「異名は、同一事物に対する異なった意味的把握の表現であり、それを異なった語ということができる」とし、扇、束髪、摺鉢の例を挙げている。それを別名「末廣」「庇髪」「當鉢」ともいうというところまではわかったが「同義語は、本質上異なった意味を表す語であって、しかも同一事物を指すことができる語だが、これを同一事物を指すというところから同義語といったのであろう。その場合意味は音声形式に対応する内容的なものを意味していることになる」という説明がわからなかった。また漢字表現による同音語、寺子屋と寺小屋、糧人と浪人、確乎と確固等について「言語の音声形式を変えることなく、文字のみによって意味の変化を表すことができる。語は同一であると見るのが普通である」という説明も、例の語は同音異議なのか同音同義なのか、よくわからなかかった。
(2017.11.23)