梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

横綱・白鵬の課題

 東京新聞7月25日付け朝刊(20面)に「横審 白鵬を特別表彰へ 39度目V最多勝更新は『偉業』」という記事が載っている。横綱審議委員会(日本相撲協会の諮問機関)北村正任委員長は白鵬が通算勝利数を1050まで伸ばしたことに触れて「多分、誰にも破られない記録。大変な偉業だ」と評価し、特別表彰することを決めたという内容である。
 そのことに格別の異論はないが、「大相撲とは何か」ということにも思いを巡らす必要があるようだ。大相撲とは①日本古来の奉納相撲を起源とし、江戸時代から続く職業的な最高位の力士たちによって行われる神事や武道、または興行としての相撲である。加えてその母体となる力士・関係者の集団・社会を指す。②日本相撲協会が主催する相撲興行。〉(ウィキペディア百科事典)のことである。江戸時代、力士は「職業的に最高位」であった。その名残を留めているのが、「いでたち」であろうか、頭には大銀杏の髷、身につける物といえば、一本の廻しとさがりのみ、文字通り「裸一貫」で勝負するのだ。髷は相撲道の象徴であり、「命惜しむな名をこそ惜しめ」といった武士道の精神と無縁ではない。大相撲は国技であり、他のスポーツとは一線を画している。したがって、勝敗の結果よりも「戦法」そのものが重視されるのである。まして横綱の条件は「心・技・体」の極みであり、下位力士の模範でなければならない。一言でいえば、「勝負にこだわらない」ことが最も大切なのである。  
 白鵬は10年間にわたって横綱の地位を占め、1050勝という勝ち星を手にしたが、はたして、その結果は、横審のいうような「偉業」に値するだろうか。横綱相撲は、「受けて立つ」ことが鉄則だが、白鵬は、かねてより「手つき不十分」「張り手」「かち上げ」など、下位力士の「技」を多用している。相撲は「立ち合いがすべて」と言われるが、それは並の力士同士の話であって、頂点を極めた横綱が取るべき手段ではない。つまり、横綱・白鵬には、「勝たなければならない」という下位時代の「心」が残っており、それがきれいな「立ち合い」の妨げになっているのである。勝つためには手段を選ばない、それは弱者の「戦法」でしかない。
 誰もが「1050勝は通過点である」と言い、そう思っているに違いない。だとすれば、白鵬が今後めざすべき道はただ一つ、横綱相撲を極めることである。「立ち合いにこだわらない」「受けて立つ」「後手を踏んでも勝てる」、そのような相撲を取り続けることである。「心・技・体」を極めた相撲道の美しさ、勝負にこだわらない潔さを具現化することこそが、横綱・白鵬の大きな課題だと、私は思う。(2017.7.25)