梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・50

二 意味の理解と語源
 言語の意味という中には、主体が事物を把握する仕方と、把握された対象とが含まれている。言語の意味をこのように解することは、私の根本的な言語の本質観に基づいている。
 「言」(パロル)は我々の脳裏に蓄積された「言語」(ラング)の具体的な実現であり、非限定的な「言語」(ラング)が具体的な事物によってその意味が限定される働きであるというソシュール的見解に立つ時、文の解釈における語の意味の把握において、種々の不合理を来すことがあり、それは継起的現象である言語を、構成的に見て、意味をその内容的なもので把握しようする誤謬に起因する。
 小林英夫氏は、意味の概念を二つに分け、「言」(パロル)におけるものを意味と称し、「言語」(ラング)におけるものを意義と名づけられた。(「文法の原理」)ここで問題になることは、「言」(パロル)における意味と「言語」(ラング)における意義との関係如何、すなわち限定された意味と非限定的な意義との関連である。限定的個物の表現に、非限定的意義の「言語」(ラング)が使用されるのはどのような契機によるものか。「言」(パロル)における意味は、「言語」(ラング)における意義に対してどのような関係に立つか。例えば、桜花を「花」といった場合、天上の星を「花」といった場合、それらの「花」
の意味、意義はどのような関係に立つか。言語学は「言語」(ラング)における意義を取り扱うことを主眼とするものであるといっても、実践的解釈作業の求めるものは、具体的な「言」(パロル)における意味だから、まずこの両者の関係が明らかにされることが先決の問題である。
 山道を歩いていて一本の木の枝を折って、「いい杖ができた」といった時、ソシュール的見解に従えば、「杖」という「言語」(ラング)が「言」(パロル)において限定されて一本の木の枝を表すと考えられるのである。この場合の「言」(パロル)における意味は、具体的個物としての枝であるのか。「枝」を表すのになぜ「杖」という言語(ラング)が選ばれたかを明らかにすることができない。「言語」(ラング)における「杖」が非限定的であり、枝を意味する「言」(パロル)における「杖」が限定的であるということはできない。もし「言語」(ラング)が「言」(パロル)において限定されるのであれば「杖」を表出するために、必ずしも「杖」という語が必要ではなく「靴」でもよし、「机」でもよいわけであって、「いい靴ができた」ということによって、それは「枝」の意味に限定されてくると考えなければならない。この不合理は、意味を主体的意味作用の意ではなく、内容的素材的なものを意味と考えたからである。
 具体的な一個の机を表現するために「ツクエ」という語を使用したとする。その時、非限定的「ツクエ」(ラング)は「言」(パロル)において使用されることによって、一個の特定の個物を意味するように限定されたと考える。ところが今、同様に一個の具体的な机を表すために「モノ」(物)という語を用いたとする。その時、「モノ」は「言」(パロル)における意味として、一個の特定の「ツクエ」に限定されてくるか。
 また「仏の功徳」というべき場合に「仏の光」といったとする。「光」とはこの場合「功徳」を指すので、「光」の意味内容に「功徳」という意味が含まれていると考えるべきであろうか。このように考えると、抽象的な広義の概念は、その意味内容としてあらゆる事物を包含しなければならなくなる。
 さらに不合理なのは、アイロニカルないい方で馬鹿を利口といった時、「利口」という語は「馬鹿」を意味内容として持たなければならなくなる。このような場合、それは臨時的意味であるという説明で、慣用的な意味と区別する方法もあり得るだろうが、「言語」(ラング)が具体的事物によってその意味が限定されるという立場をとる限り、「言語」(ラング)の使用は、どんな場合でも臨時的でないことはない。甲が使用した場合の「ツクエ」は、決して同じ意味内容では乙によっては使用されない。この矛盾は、我々の言語行為を「言語」(ラング)の具体的実現であると考えるところからくるのである。
 言語の表現素材としての事物は、言語主体にとって何ら意味のないものであり、主体とは何の関係も持っていない。ある事物を「ツクエ」と表現するためには、まず事物を「ツクエ」として把握することが必要である。「ツクエ」という語は、一個の事物に対する主体の把握の仕方すなわち意味の表現であって、事物そのものの表現とはいえない。もし素材に即していうなら、「ツクエ」として志向された対象の表現であるといえる。「モノ」という語は、事物に対する「ツクエ」とは異なった把握の仕方の表現である。客観的に見れば、「ツクエ」と表現された物も、「モノ」と表現された物も同一物であるかもしれない。しかし、主体的立場で見るならば、同一事物に対する異なった意味的志向があるとみなければならない。その相違が「ツクエ」という語になり、「モノ」という語になるのである。さらに厳密にいえば、「ツクエ」と表現した場合と「モノ」と表現した場合とでは、意味的対象志向としては、相違しているといわなければならない。山道で折られた一本の木の枝は、それが折られた瞬間に、もはや「木の枝」でなく「杖」と把握されたのである。「杖ができた」という表現は、このような主体的意味作用の段階がなければ成立できない。「杖」という語が用いられたところに意味を見るべきである。
 意味というものは、音声に対応する内容的なものをいうのではなく、主体の事物に対する態度をいうべきである。また例えば、巡査の出現は、暴漢に襲われようとした者にとっては「救い」として表象されるがゆえに「救いが現れた」と表現されるであろう。暴漢にとっては「邪魔」として表象されるがゆえに「邪魔が入った」と表現されるであろう。「救い」「邪魔」という二つの語が、この場合限定されて「巡査」を意味すると考えるならば、それは表現過程における主体的対象把握を無視した意味の理解である。
 この過程に発展する表象すなわち「巡査」→「救い」、「巡査」→「邪魔」がこれらの語の意味かというと、意味はむしろこのような表象の発展を導く主体的な作用に求めなければならないと思う。語学教授で採用される直観法(「ツクエ」という音声に対して一個の具体的な机を示すという方法)は語によって表現される素材それ自身を教えることはできても、その語によって表現される意味を示すことができない。「ツクエ」という語を教えるのに、「書物を読むためのものである」とするのは、語の意味を教授するに幾分近い。このようにして教えられれば、あり合わせの板や箱でも、時には「ツクエ」として表現されることが可能になる。このようにして一本の枝も「杖」として表現することができる。語の意味が音声形式に対応する表象ではなく、表象成立の基礎となる事物に対する主体的把握の仕方の表現であるということは、古語の解釈にとっても重要なことである。
● やをら几帳の綻びより見給へば、(こころもとなき)程の光影に御髪いとをかしげに花やかにそぎて(「源氏物語」・澪標)
● この世の栄末の世に過ぎて、身に(こころもとなき)事はなきを(「源氏物語」・若紫上)
 上の「こころもとなき」は「ぼんやりした」という意味であり、下は不満足な事に対してかくあれかしと願う意味である。この両者の意味に関連はない。上の例における具体的事物である燈は、客観的には「淡き光」として表象される。この段階においてはまだ「こころもとなし」という語は成立しない。この「淡き光」は語り手に対して「もう少し明るければという感情を誘発させ、そこで「こころもとなし」という語が成立する。この語は素材である「淡き光」に対する意味的志向から生まれたといえる。これを把握された対象に即して見れば「不明瞭」とか「ぼんやり」という意味に解せられるが、素材的事物そのものは問題でなく、重要なのはそれを把握する仕方である。客観的事物が異なっても、意味的志向が同じならば、ひとしく「こころもとなし」ということができるのである。 ● かく(恥ずかしき)人参り給ふを、御心遣ひして見え奉らせ給へ(「源氏物語」・絵合)
● いと(恥ずかしき)御有様に、便なき事聞し召しつけられじと(「源氏物語」・澪標)   これらを単に音声形式に対応する内容として意味を把握するなら、「恥ずかしき」=「立派な」「端麗な」という意味になり、
● いと(恥ずかしき)有様に対面せむも、いとつつましく思したり(「源氏物語」・蓬生)  
 では、「恥ずかしき」は「みすぼらしい」とでも解さなければならなくなる。
 上の三例において、意味を事物そのものとしてでなく、事物に対する主体的把握として
理解すれば、端麗な有様、みすぼらしい有様は、事物としては著しく異なったものであっても、話者のそれに対する意味的把握において、共通した「恥ずかし」という感情において把握されたものと考えることができるのである。このようにして、客観的に同一である事物も、話者の志向関係において、「死」を「かくれる」「なくなる」「くたばる」「のびる」などと表象されるのである。「死」は、主体的には生理的機能の停止としてのみは把握されない。それは悲しいことであり、無常のことであり、極楽への誕生である。
 このように客観的事実の把握される過程は、その各段階における意味的把握の対象をabとするならば、その形式は種々な図式によって示すことができるだろう。
● a・・・・・→b・・・・→B(音声)
 bがaより広義の概念である場合、bがaを機縁とする情緒的表象である場合、bがaの連想によって生じた表象である場合、bがaの反対概念である場合等に分類できる。音声Bの表す意味は、Bより逆推して得たbaの表象作用(事物に対する主体的把握)の段階である。
 忌詞「アセ」(汗)の意味は「血」、「カミナガ」(髪長)の意味は「僧」である。話者においてはbすなわち「汗」という概念を通してa「血」を表現することであり、聴者においてはb「汗」の段階を遡って、a「血」を理解することであり、ともに直接的に具体的事物そのものを表現し、理解することを避けようとするのである。意味はすなわち「血」や「僧」を「汗」あるいは「髪長」と把握すること自体でなければならない。そこにこそ忌詞の本質を認めることができるのである。比喩の場合も同様であり、その本質に相違はないが、表現意識に即して忌詞といい、表現手段に即して比喩といったまでである。「血」を「アセ」というのは忌詞であると同時に比喩である。
 ソシュール的見解に従えば、詩人は語の巧みな使用者であり、語を個性的にし、性格的にし、概括していえば、語の創造的限定者である(「言語学方法論考」小林英夫氏)ということだが、この見解は根本的に修正されなければならない。詩人といえども、自己の思想を言語で表出する限り、概念的に表現する外に道はない。ただ詩人は、具体的な対象の世界を、詩人のみに許された仕方で把握する。
● 閑かさや(岩にしみ入る)蝉の声
 蝉の声のかまびすしい現象を「岩にしみ入る」現象として把握したところに、芭蕉のみ許された対象の特殊な把握を見出すのである。芭蕉が言語の形で表現した表象は、非現実的事実の上に把握したものであったかもしれないが、これら表象把握の展開を逆推するこは許される。言語は実にこのような具体的事物の把握の仕方の表現であり、意味はこれらの把握の仕方に外ならないのである。
 意味の本質が、言語主体の表現素材に対する概念作用(意味作用)であるということは、古い国語研究の歴史にも示されている。歴史的変遷の意識のなかった時代における語源学は語の正義本義の探求であった。その探求において理解しようとしたのは、語の表す素材的事物ではなく、その事物をなぜそのようにいい表したかということであった。すなわち、立名の根拠を明らかにすることであり、言い換えれば意味を明らかにすることである。
 仙覚は「たむけぐさ」を解釈するのに、まずこれを女蘿(ジョラ・蔦)であるとこの語の示す事実を明らかにし、
● タムケトイヘルハ、タハ手ノ義、ムハ高キ義、ケハ毛髪ノ義也。然レバカノ女蘿、テナガクシテ、タカキ木ノ枝ニカカルトキコエタリ(「仙覚全集」)
 とあるのは、素材である女蘿に対する言語主体の意味的把握の仕方を探求したのである。
 貝原益軒の日本釋名、新井白石の東雅、鈴木朗の雅語音声考等はみな事物にに対する言語主体の意味作用を研究しようとしたものである。
 「おやつ」を語源的に研究して「八つ時に食う間食」という意味が分かったとすれば、この語が成立した当時の意味的把握を知ることができる。この意味表現の仕方は、今日再び新しい形で「お三時」というような語を作ると同時に、「おやつ」はもはや成立当時の意味を表さず、ただ「昼食と夜食の中間の間食」という意味を表すに過ぎない。しかし、それも意味であることに違いはないのである。語は成立当時の意味を次第に変えて新しい意味を表現するようになるが、語はその成立当時において最もよく意味を表しているために、歴史的見地における語源研究は、また同時に体系的な意味研究と相通じるのである。
 ソシュール的見地(言語構成観)による意味の考え方、「言語」(ラング)における語の意味が「言」(パロル)において限定される、という考え方では、具体的言語における忌詞、比喩あるいは皮肉な語の使用法を説明することができない。意味は事物に対する主体的な把握の仕方と考えることによってその本質を理解することができるのである。
 このような意味の考え方は「意味」という語の一般の用語例にも覗えることであって、「お祭り騒ぎは意味がない」「長年の苦心も意味があった」という場合の「意味」とは、ある事物が話し手に対して特殊の関係によって結ばれていることを意味する。この関係の最も顕著なのは、価値意識において対象を把握した場合である。貨幣は人間にとっては意味があるが、犬や猫にとっては全く無意味である。貨幣に意味があるということは、貨幣に対する我々の把握の仕方から出てくることである。語の意味を、その内容的なものおいて把握したと考えられる場合でも、実は素材に対する話し手の意味的志向関係において把握していることが多いのである。書籍を「商品」と表現して「知識の蔵」と表現する時、そこに我々は客観的に同一な事物に対する異なった意味的志向を見ることができる。書籍を「書籍」と表現した時ですら、これを紙の集積として屑物屋の手で処理される時とは異なった意味で把握されているのである。語の意味ということは、従って、語を主体から切り離して論ずることは無意味であり、不可能であるといわなければならないのである。
【感想】
 この項の前半で著者は、ソシュール的見地の「意味論」を批判している。小林英夫氏は言語の意味を二分し「言語」(ラング)では意義、「言」(パロル)では意味と称したが、その両者の関係を明らかにしていないということである。「言語」(ラング)は非限定的であり、それが「言」(パロル)によって限定される。非限定的な「ツクエ」という概念によって、具体的な机を「ツクエ」といった時は、限定されたと考えられるが、その机を「モノ」という「言」(パロル)で表した時、机には限定されない。同様に「仏の功徳」を「仏の光」、「馬鹿」を皮肉って「利口」といった時、「光」に「功徳」、「利口」に「馬鹿」という意味が含まれなければならなくなるという不合理を指摘している。 
 それに対して、著者の「意味論」は単純明解である。要するに、言語の意味とは、言語主体が素材(客体的事物、表象等)を把握する仕方であるということである。
 ある人(言語主体)が一本の木の枝(素材)を手にして「いい杖ができた」という時、枝を杖として見立てたその把握の仕方が「杖」という語の意味だということであろう。忌詞で「血」を「汗」といい「僧」を「髪長」という。その場合、「汗」の意味は「血」であり、「髪長」の意味は「僧」である。それはつねにイコールで結ばれるわけではなく、その場における話し手と聞き手の関係の中で表現、理解されることだと思う。  
 著者はその考え方を、古い国語研究(語源研究)に求めていることも、たいそう興味深かった。「おやつ」とは「八つ時(午後三時前後)に食べる間食」であり、今では「お三時」あるいは「三時のおやつ」などとも言われていることがよくわかった。
(2017.11.20)