梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・47

(三)修飾格と客語および補語格
 修飾格は、連体修飾格(形容詞的修飾格)と連用修飾格(副詞的修飾格)に二分されるのが普通である。修飾格の位置に立つものが修飾語である。修飾語は、文に包摂されたものが分立して表現されたものだから、主語、客語、補語等と本質的に区別されるべきものではない。「神信心」という語を「神を信心すること」という意味でとれば「神」は客語と考えられるが、「神」は「信心」の修飾語として「神の信心」(例・試験の監督、貧民の救済)という意味にもとれる。そこで、客語や補語を修飾語と区別せずに、ひとしく修飾語として一括しようとする見地も生まれてくる。
● 兄は(北海道へ)出張した。
● 兄は(昨日)出張した。
 「北海道」「昨日」は、ともに述語に包摂されている内容を詳細に表現するために、抽出分立させたものとして、それが述語に対する関係は全く同じである。従って「昨日」を修飾語とするなら「北海道」も修飾語といわなければならない。
 橋本進吉博士は、客語、補語等をも修飾語として取り扱われ、その間に区別を認められない(「新文典別記上級用」)これに対して山田孝雄博士は、補語と修飾語を次のように区別している。
*補格は用言の意義を完成する必要よりして補へるなり。修飾格はなくとも用言の意義は事欠かず。ただこれを加ふるによりて一層詳細となるものなり(「日本文法学概論」)。
*補格といふものは上述の如く用言の意義の不十分なる場合にそれが補充に立つ地位をいふものなり(同)。
 以上の定義に従っても、なお補語と修飾語の限界を明らかにすることはできない。山田博士のいう意義の完成とか、これを詳細にするものとかいうことは、文の完全な表現を基準にしているが、補語といえども文の意味を詳細にする以上のものでなく、修飾語といえども、それがなくては文意が完全でない場合がありうる。完全不完全の認定は、客観的には困難である。
 なお別の見地から、表現における主体的意識が修飾語と補語との差異を明らかにするということを忘れてはならない。例えば、
● 雨降り、地固まる。
● 雨降れば、地固まる。
 上の二文は、ともに「雨降る」という事実が原因で「地固まる」という事実が成立したことを表現しており、ともに因果関係の表現であるが、主体的意識においては、前者が事実の連続的継起をそのまま叙述したのに対して、後者は条件関係を認めて、それを言語に表現している。従って「雨降り」という形と、「雨降れば」という形が、事実を離れて、表現意識として問題にされなければならないのである。同様なことが、今の修飾語の問題にも適用できるのではなかろうか。
 修飾格を客語格、補語格に対立したものと考えると、そこに明らかな差別を見出すことは困難だが、客語格や補語格を(修飾格と被修飾格との関係をさらに対立的に)より厳密にした表現であると考えれば、そこに言語としての区別を認めることは当然である。
 この例の、同一事実を表現したものであるにもかかわらず、「雨降れば」を条件として、「雨降り」と区別したのは、主体的立場の観察からいえることである。
 また、例えば、
● 湯が冷える。
● 湯が冷たくなる。
● 湯が水になる。
 上の三つの文に表現された事実は、客観的には同一だが、主体的立場としては、異なった思想を表現している。「冷える」は単純な述語、「冷たくなる」は、修飾語「冷たく」と「なる」が結合して一つの述語になったもの、「水」は「なる」の補語であると理解することによって、三つの文の表現の変化に対応することができる。
 また、
● 兄は(昨日)出張した。
● 林檎を(三つ)下さい。
 の「昨日」「三つ」は副詞格だが、
● 兄は(昨日)から出張した。
● (一冊)を選んだ。
 の「昨日」「一冊」は、辞「から」「を」等によって、述語に対する単なる限定や修飾ではなく、対立的な秩序に置かれたものだから、これを修飾格とは別の意味のものとして取り扱う必要がある。これは一方に格助詞を吟味すれば、当然考えられなければならない事柄である。修飾格と客語、補語等の格が分立する有様を図示すれば次のようになる。
● 《「修」 》     修飾語が、単に被修飾語に付属している状態
● 《「客、補」(辞) 》 修飾語に辞がついて、被修飾語との対立関係が示され、客語、補語となった場合
 主語は述語に包摂されたものという考え方からいえば、修飾語と同等に取り扱われるべきものであるが、それが、述語に対立した主体として分立された時、これを主語として認めることができる。主語も客語も補語も、もしその対立関係を表面に表さず、「(日)の入り」「(地)ひびき」「(人)殺し」「(腹)切り」「(壁)かけ」「(沖)づり」等のように用いられれば、それらは下の体言に対して単なる修飾語の位置に立つのである。
 格は客体的なものについての認定された秩序の表現であるから、述語格に総合された客体的概念の分立からこれを規定していくことは当然である。
 格を文における必要な要素であるか否かによって規定することは正しくない。必要か、不必要かということは表現が充足されるか否かに関することで、それは修辞上の問題であって、語法上の問題ではない。
 修飾語は、被修飾語に依存するものとして抽出されたものであり、客語、補語(主語も同様に)は述語に対立するものとして分立されたものであり、これらの格が述語に包摂されているという客観的形式は同一ではあるが、言語の主体的立場においては、遠心的求心的な秩序の識別が存在する。
【感想】
 ここで著者が述べている結論は、末尾の「修飾語は、被修飾語に依存するものとして抽出されたものであり、客語、補語(主語も同様に)は述語に対立するものとして分立されたものであり、これらの格が述語に包摂されているという客観的形式は同一ではあるが、言語の主体的立場においては、遠心的求心的な秩序の識別が存在する。」という一文にまとめられていると思われるが、主体的立場においては、修飾語と客語、補語(主語)の間には《遠心的求心的な秩序の識別が存在する》という意味を理解することができなかった。修飾語と被修飾語は遠心的な秩序であり、主語と客語、補語は求心的な秩序であるということだろうか。それとも、その逆だろうか。
 著者は冒頭で「修飾語は、文に包摂されたものが分立して表現されたものだから、主語、客語、補語等と本質的に区別されるべきものではない」とも述べている。一方で《本質的に区別されるべきものではない》と述べ、他方で《遠心的求心的な秩序の識別が存在する》と述べているのはなぜだろうか。  
 著者が列挙している例文、「雨降り、地固まる」「雨降れば、地固まる」、「湯が冷える」「湯が冷たくなる」「湯が水になる」、「兄は昨日出張した」「兄は昨日から出張した」、「林檎を三つ下さい」「一冊を選んだ」の差異についての説明は、よくわかったのだが、全体としての論脈が理解できなかったことはまことに残念である。
(2017.11.13)