梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・46

(二)主語格と対象語格
 述語格から分立する主語、客語、補語等は、述語との論理的規定に基づき、述語に対する主体、あるいはその客体、目的物等の主体的弁別に基づいて現れてくる。国語の形容詞及び動詞のあるものについては、次のような特殊な現象を認めることができる。
●甲 色が赤い。 川が深い。
●乙 水がほしい。 母が恋しい。
 甲例においては、「色」「川」は「赤い」「深い」の主語である。  
乙例においては、主観的情意の表現であるから、「ほしい」「恋しい」の主語は感情の主体である「私」か「彼」かでなければならない。「水」および「母」は、「私」あるいは「彼」の感情を触発する機縁となるものだから、これを「ほしい」「恋しい」に対する対象語と名づけ、このような秩序を対象語格と呼ぼうと思う。「娘は母が恋しい」という文において、「娘」を「恋しい」の主語というならば、「母」は、このような主語、述語に対して対象語ということができる。「飯が食いたい」「足が痛い」の「飯」「足」も対象語である。対象語格の設定は、動詞的述語についてもいえる。
● 私は 金が要る。
● あの男のだまっているのが 私は癪に触る。
 「金」および「あの男のだまっているの」は対象語格と考えることができる。「鐘が聞こえる」「山が見える」「算術ができる」等の例も同様である。
 対象語、対象語格は、しばしば主語、主語格に移動することによって、文の成分の理解を困難にさせることがあるが、そこに国語の一つの特異性を見出すことができるのである。
 上記甲例(形容詞が客観的な属性のみを表現する)と乙例(情意の主体が主語になる)の中間に次のような語が存在する。
 面白い にくらしい おかしい 淋しい 恐ろしい 暑い 寒い等
 上の形容詞については、二つの主語を識別することが必要である。
● 私はこの本の筋が面白い。
 この「面白い」は、私の情意を表したものであると同時に、私の感情を刺激したこの本の筋の属性を表現したものと考えられる。このような属性と情意との総合的な表現の結果、乙例では対象語としての資格のみを持っていたものが、同時に主語として考えることができるようになってくる。もし「私」という語が表現されなければ、「面白い」の主語は「この本の筋」と考えられる。それは正しい。
 もし属性と情意との二面の意味が存在するということになれば、それらの二つの主語についても秩序が考えられるべきであり、そこに純然たる主語と、主語でありしかも主語とは別の対象語との識別が必要となってくる。その識別の認定が曖昧であるということは、形容詞の総合的表現に基づくものだが、また同時に、それは、形容詞の意味の変化したことを示すものであって、語の意味の理解の上からは重要なことである。
(1)秋の雨は淋しい。
(2)君が理解してくれぬことは淋しい。 
(3)この模様は淋しい。
 (1)の「淋しい」という語には、秋の雨の客観的有様と同時に、この文の表現主体の主観的感情を含めている。従って、「秋の雨」は主語とも考えられるが、なお「私」あるいは「彼」を主語として、「秋の雨」を対象語とする方が、この文を理解するためには適切である。(2)の「淋しい」という語には、「君が理解してくれぬこと」の属性について語っているのではなく、「私」あるいは「彼」が淋しく感じているという感情のみを表現しているので、これを対象語として一義的に解釈するほかはない。「淋しい」は全く主観的感情の概念的表現である。(3)の「淋しい」という語には、模様の属性についての表現のみあって、それによって「私」が淋しいという感情を持つということが語られているのではない。従って「模様」は主語としてのみ解釈すべき場合である。
 このように、主語とすべきか、対象語とすべきか、主語であると同時に対象語とすべきであるというような判定もできるわけである。  
 以上の事実は形容詞の意味の変化に対応することであり、対象語にのみ関係を持った属性概念を表す述語が、次第に情意的概念を表すように変化し、情意の主体にのみ依存した述語が、次第に属性概念を表すように変化していくのである。
 「ゆかし」という語は、元来、主観的情意性のものだが、対象語との結合の結果、属性概念に移って、対象語を主語とするようになり「琴の音がゆかしい」といえば、今日では「琴の音が聞きたい」という主観的概念の表現でなく、琴の音の属性の表現と考えられている。「みにくい」が、見ることが難しいという意味から「醜い」という意味に変化し、「心苦し」が可憐という属性的意味に移るのも同じ理由による。反対に、平気強顔を意味する属性的な「つれなし」が、「情けない」「つらい」という主観的感情の意味に転じてくるのは、属性的な主語が、次第に対象語に移ったためである。
 以上のように、対象語と主語との認定には、明確な限界を定めることができないにしても、それが国語の総合的な概念把握の反映と見る時、その曖昧なところに国語の真相を把握することができると思う。
【感想】
 「色が赤い」「川が深い」の主語は「色」「川」だが、「水がほしい」「母が恋しい」の主語は何だろうか。「ほしい」「恋しい」は主観的情意の表現だから、その感情の主体である「私」あるいは「彼」である。ではこの場合、「水」「母」は何になるのだろうか、という問題に対して、著者は「対象語」と名づけ、このような秩序を対象語格と呼んでいる。なるほど、その説明はたいへんわかりやすく、すぐに理解できた。
 同様なことは動詞の場合にも該当する。「私は 金が要る」の主語は「私」であり、「金」は対象語である。「鐘が聞こえる」「山が見える」などの「鐘」「山」も主語ではなく、対象語である。
 さらに著者は「面白い」「淋しい」などの文例を挙げ、「私はこの本の筋が面白い」の主語は「私」でもあり「この本の筋」でもある。それは国語の総合的表現に基づくものであり、曖昧さを伴うが、語の意味を理解する上では重要であるということである。
 また、「淋しい」では、①秋の雨は淋しい、②君が理解してくれぬことは淋しい、③この模様は淋しい、の三例を挙げ、①の主語は「私」(彼)と「雨」、②の主語は「私」(彼)③の主語は「模様」であるという説明が、私にはよくわかった。
 形容詞の意味は、時代とともに変化していく。聞きたい、見たい、知りたいという意味であった「ゆかし」は、「琴の音がゆかしい」という時には「格式、品があり落ち着いている」(琴の音の属性)という意味に変わっている。見ることが難しいという意味であった「見にくい」が「醜い」に変わり、平気、冷淡の意味であった「つれなし」が情けない、つらいという主観的感情の意味に変わっている。
 末尾で著者は「対象語と主語との認定には、明確な限界を定めることができないにしても、それが国語の総合的な概念把握の反映と見る時、その曖昧なところに国語の真相を把握することができると思う」と結んでいるが、なるほど国語の「一筋縄ではいかない」真相が見えてきたような気がする。(2017.11.11)