梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・45

ニ 文における格
(一) 述語格と主語格 附、客語補語賓語等の格
 これまで文の成立に関する形式について述べてきたが、文にはそのような形式によって統一され、完結される内容の存在が必要である。判断するためには、判断される事実とその表現がなければならない。感情の表現には、感情の機縁となる事実とその表現が存在しなければならない。それらを文における客体と名づけるならば、客体の秩序が文における格である。詞と辞の結合は、それが単位となって、さらに入子型構造形式によって統一形式を完成する。
● {《「詞」(辞)》詞}(辞)
 文における客体的なものの秩序とは、詞と詞との関係であり、それは言語主体の認定に基づき、辞によって表現されている。客体である事物を主体から切り離せば、主客の秩序は存在せず、単なる概念あるいは表象の羅列、総合された一つの表象に過ぎない。


 次に、国語の語の排列形式と格(語相互の秩序)との関係を考えてみたい。
 入子型構造形式は、すでに述べたように
● {《「a」b》c}
 のような包摂関係によって統一が形作られるが、この関係は、客観的に見れば、a b cは単に包まれるものと、包むものの順次的発展に過ぎない。
 しかし次の図形においては
● 甲 {《「a」b》  c  }
● 乙 {《「a」  b 》c }
 a b cの関係は、甲においては、cはa bの結合したものを包摂しているのに対して、乙においては、aは bcの結合の結合したものに包摂されているように認定される。これは主観的判断に基づくものである。このような秩序関係の差等が言語の場合にも認められるのであって、そこに、いわゆる文の成分の類別が成立するのである。
 国語においては、判断される客体はすべて述語格である。
● 走る。 短い。 人だ。
 のような文においては、「走る。」「短い。」はともに陳述が零記号であり、「人だ。」においては、陳述「だ」によって示されている。これら陳述の客体である詞としての「走る」「短い」「人」はすべて述語格である。


 辞ならびに陳述が総括機能を持っているという見地から、述語は当然主語をその中に包摂するので、辞ならびに陳述の客体を述語格とする立場からは、次のようなものは当然述語格である。
● 犬が走る。・・・・《犬が走る》(■)
● 人生は短い・・・・《人生は短い》(■)
● 彼は学生だ・・・・《彼は学生》(だ)
 以上は、零記号の陳述ならびに「だ」によって総括されているので、すべて述語格である。従って、総括された客体的なもの(「犬が走る」「人生は短い」「彼は学生」)は詞としての性質を持ちうるようになる。この推論は、従来の説明とあまりにかけ離れて肯けないように考えられるかもしれないが、国語の構造上極めて重要な結論であると考える。


 この見解が妥当であることを明らかにするためには、まず第一に述語格に対する主語格の関係を明らかにしなければならない。一般に、主語格は述語格に対立したものと考えられ、この対立を結合するところに統一が成立するという印欧語的統一形式の観念から離れなければならない。国語においては、主語は述語の中に含まれる形で主語に対立していると見なければならない。従って、判断的陳述の対象が、すべて述語格であるといっても、主語格の存在を無視したことにはならない。「走る。」といえば、その中にすでに何ものかが走ることを意味しているのであって、国語においては主語が省略されているという見方は正しくない。文において表出されている主語は、述語に対立したものとして表出されているのではなく、述語の中にかくされていたもの、包まれていたものが外に表出されるようになったと解すべきである。このことは以下の文において明らかである。
● 心細い。心苦しい。歯がゆい。鼻が高い。手が長い。気が長い(短い)。芽生える。  心ざす。腹が立つ。気がくさる。目が利く。目立つ。
 以上は一語で成立した文とも考えられるが、他方、それぞれに主語を持っているのである。
 私の主張はまたいわゆる総主の現象(注・総主語:述語節の中に主述関係があるとき、その述語節に対する主語をいう 。例えば「象は鼻が長い」という文における「象」または「象は」をさす)からも支持される。      
 例えば、「象は鼻長し」という文を、その最も簡単な表現から順次分析すれば、
● 長し。・・・・《「長し」》(■)  *「長し」は述語格
● 鼻長し・・・・《「鼻」長し》(■)*「鼻長し」は全体として述語格であるが、その中に主語格である「鼻」とそれを含んだ述語格である「長し」を区別することができる。
● 象は鼻長し・・・《「象」は 鼻長し》(■)*「鼻長し」全体が一つの詞として述語格であると同時に、「象は鼻長し」がまた全体として述語格となる。
 上のような構造は、述語が主語を分立し、さらにその主語を含めて述語となりうるという性質を考えなければ不可能なことである。


 以上のような包摂関係をつくる主語述語の分立は、客語補語についてもいえる。例えば、
● 目ざます。心がける。たびゆく。よみがえる。あまてらす。間にあわす。つらにくし。人なつかし。
 のような文は、それ自身述語であると同時に客語補語等を包摂している。この分立の傾向によって、しばしば二重の主語述語補語が分立することがある。
● 電車が停電する。馬から落馬する。立死にに死ぬ。大笑いに笑う。田をたがやす。名を名のる。
  以上のように、述語格より主語客語補語等が分立され表現された場合には、これらの客体的なものの相互の秩序は、格を表す辞によって明らかにされるのが普通だが、主語は必ずしも格を示す辞を伴わず、零記号で表されることがある。それは述語格が用言のみで表されるのと同様な事実であって、辞の有無は表現の正確さに対する要求に基づく。述語格の場合でも、用言のみのでは判断の表現が物足りく感じられるときは、次のような表現が成立するのも自然である。
● 雨が降るです。山が高いです。水が美しうございます。
 この「です」「ございます」と「彼は学生だ。」の「だ」と比較すると、用言でする陳述が、決して用言自体に陳述の機能があるわけではなく、陳述の形式が便宜上省略されたものと見るべきであることが明らかになると思う。標準的ないいかたではないが「雨が降るだ」「寒いだ」などといういい方にも語法的必然性を認めることができるのである。


【感想】 
  著者によれば、主体の活動(話し手、書き手)に対応するもの(文の客体)の秩序が文の格である、ということである。
 そして、まず「述語格」から説明している。判断される客体はすべて述語格であるとし、「走る。」「短い。」「人だ。」「犬が走る。」「人生は短い。」「彼は学生だ。」という例文を挙げながら、「国語においては、主語は述語の中に含まれる形で述語に対立していると見なければならない」と述べている。なるほど「心細い」「目立つ」などの心、目は主語である。また「目ざます」「心がける」の、目、心は客語補語であることはよくわかった。
 ただし、「犬が走る。」「人生は短い。」「彼は学生だ。」が述語格だとすれば、主語格は何なのだろうか。「象は鼻が長い」の主語は「象」であり、述語は「鼻が長い」であることはよくわかる。上の例文の場合、この「象」に相当するものは何なのだろうか、という疑問がわいてきた。
 著者は文の格とは、主体が表そうとした客体の秩序だと説明しているが、その秩序とはどのようなものなのか、また「述語」と「述語格」、「主語」と「主語格」をどのように使い分けているのかも判然としなかった。次を読み進めれば明らかになるかもしれない。
(2017.11.8)