梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・44

ハ 文の完結性
 文の本質は詞と辞の結合であるが、それは文成立の一半であって、さらに一つの重要な条件は、思想の表現が完結されているということである。 
「花・は」「雨降る・べく」「美しけれ・ども」は詞と辞が結合しているが、これを文とは考えない。なぜなら、思想が完結されず、下に何らか続くべき勢いを示しているからである。「は」「べく」「ども」は未完結な辞だからである。
 辞と同じ機能を持つ陳述作用について見ても、その完結は用言の完結形式に代表されている。「流る」「美し」は完結しているので、それだけで文を構成しているが、「流るる」「流るれ」「美しき」「美しく」「美しけれ」の意味内容は前の場合と同様だが、文と考えられないのは、それが未完結な陳述を示すからである。完結の意識を伴う用言の用例は、用言の終止形と係を伴う時にのみ完結することができる。
 「水流る」「花美し」が文と考えられるのは、主語述語があるからではなく、また陳述作用を伴うからでもなく、完結する陳述作用があるために、文と認識され、統一した思想の表現と考えることができるのである。
 完結と完全との区別について一言すれば、完全とは主観的基準においてのみいえることであり、完結とは客観的に規定された事実である。従って文の完結とは客観的に妥当する事実に基づく。完全とは主観的満足感に基づくので、時と処により文の完全さは相違し、同じ文でも話し手と聞き手により相違することがありうる。例えば「アスツク」という電報を受け取った場合、受取人が到着の時刻をあらかじめ承知している場合には、この文は完全であり、時間の記入は蛇足だが、もしこれを代理人が受け取って事を処理する場合は時間の記入がないのを不完全と考えるだろう。このように完全感は、主観の立場によって相違する。しかし、この言語表現が、完結して文をつくっているということは、甲乙いずれの人にも認められる。
 また、完結の意識は、文の不可欠の要素と考えられる主語述語補語等の有無とも関係がない。
● 「鬼になる人ないか」「僕がなろう」
 上の「僕がなろう」という表現には「鬼に」という補語を必要とするのだろうが、それはこの文の完全不完全に関することであって、完結には関係がない。この場合、補語がなくても文は完結し、かつ表現に充足性があるから、話し手においても、聞き手においても完全であるといえる。このような表現は、補語が省略されたと見るよりも、補語の概念が、述語の概念の中に融合され未分化の状態にあると見るのが正しいと思う
 それは、国語においては、主語述語の結合したものが一つの述語として取り扱われる可能性を持ち、また一つの述語と考えられるものが実は主語と述語の結合であったりする事実からもいえることである。
● 象は(主語) 《鼻(主語)長し(述語)》(述語) 
 は、前者の場合であり
● 《うら(主語)淋し(述語)》(述語) 《心(主語)ざす(述語)》(述語)
 は、後者の場合である。
 以上の点は、主語ー述語、主語ー繋辞ー述語の形式で、つねに分析されたものを総合するという表現をとる印欧語に対して著しい相違をなし、国語においては、総合されたものを分析することで表現する。このことはおそらく国語を使用する者の思考法の根本から出てくることであろうが、その一斑は、これを国語の述語が分析される状態について見てもいえると思う。「長い。」という表現は、現実に象を見た場合の表現であり、その際、象も鼻も潜在意識としてそこに包含された総合的表現である。このような表現が、時と処によって完全性を得るために、主語述語修飾語に分析される有様は次のように、
● 鼻が長い
● 象は鼻が長い
● 鼻が象は長い
 そして、第三の場合においては、主語「象」は述語の中間に分析されて現れていることは注目すべき現象である。以上により、主語補語が欠けているということは、表現の省略ではなく、未分析の総合的表現であり、しかも表現の完全感は十分に達成できるのであって、文の完結未完結ということとは全く関係のないものであることが明らかになったと思う。
注・《国語においては、総合されたものを分析することで表現する》例
● 私は虎が恐ろしい。
● 娘は母が恋しい。
 完結と完全の相違は、次の例においても見ることができる。
● あんなに云ってやったのに、
これは、陳述が完結していないので文とはいえない。しかし、話者においても聴者においても、表現の完全感は、それが完結した表現よりも充足されている。いうべきことをいわなかったという点では、主語や補語のない場合と共通しているが、「火事だ!」といった場合、表現が述語の中に包含され、一切の感情がこの語に累加されているのに対して、この場合は、「あんなに云ってやったのに」という表現に続いて起こるべき思想が表現されていないので、省略といわなければならない。従って、それは文ではなく、文の断片であるに過ぎない。表現の完全性からいえば、それは余韻の効果によって、完全性が発揮されているといえるだろう。
 和歌の初句、二句、上句、下句等は、完結した統一体の《部分》という意味に用いられている。三句切れにおいては、上句で意も形も完結しているが、なお句といわれるのは、それが全体に対する部分の関係にあるからである。しかし、なお厳密に考察すれば、
● 見わたせば花ももみぢもなかりけり。浦のとまやの秋の夕ぐれ。
 において、「なかりけり」の完結した陳述は、上句のみの独占するものではなく、実は一首全体に関する陳述の完結であるから、従って「見わたせば・・・なかりけり」は、完結形式を持つにもかかわらず、句といえるのである。このように解することが適切なのは、● なみなみの人ならば(こそ)、あららかにもひきかなぐら(め)(「源氏物語」箒木) この辞と辞の照応(係り結びの関係)を見ると、「かなぐらめ」が独立句のみの陳述であるならば「かなぐらむ」でなければならない。「む」が「め」となっているのは、これが独立句のみの陳述ではなく、附属句を含めた文全体の完結を示す陳述であるためである。従って、「あららかに・・・かなぐらめ」は、それだけ取り出せば完結しているにもかかわらず、句であるということになる。このように見てくると、句が文の一部であるということは、我が国における用語例からはいい得ると断言できるだろう。連歌における句々は、それぞれ独立した想を持ちながらも、全体に対しては不即不離の関係にあるので、厳然として一部であることが要求される。漸時本質的に句の域を脱して、俳句に至れば、それは独立した文と呼ばれるべきものである。
 句は元来、全体の部分を意味するが、それが部分であると同時に独立した一つの全体でなければならないということから、連歌において明らかなように、発句には完結が要求されて切字の説に展開する。発句は連歌全体に対しては句であるが、独立の想と形式とを有するという点からいえば、本質的に文であるといえる。このように、国語においては、独立の思想の表現ということと、完結の語形式の観念は切り離すことができない関係にあるということがわかる。従って、国語において、文と文の完結しないものとは截然と区別する必要があり、通俗に用いられる、文の完結しないものを句と称し、あるいは、附属句を除いた完結句も同様に句と称することは妥当であると考える。


【感想】
 〈文の本質は詞と辞の結合にあるが、もう一つ重要な条件として、思想の表現が完結していることが要求される。「花(は)」「雨降る(べく)」「美しけれ(ども)」等は詞と辞が結合しているが、文とはいえない。思想が完結されず、下に何らか続くべき勢いを示しているからである〉と著者は述べている。完結は用言の終止形であり、他の活用形は、特殊の条件の下(係を伴う時)のみ完結できるということである。 
 また、完結と完全の違いについても、著者は「完全とは主観的基準においてのみいえることであって、完結とは客観的に規定された事実である」と説明している。「アスツク」という電文は、到着時刻を知っている受取人にとっては完全だが、知らない受取人にとっては不完全である。つまり主観の立場によって相違する。しかし、この言語表現そのものは完結している。
 次に、著者は「主語述語補語等の有無と完結とは関係ない」としながら、国語においては「主語述語の結合したもの」が一つの述語として取り扱われる可能性を持ち、また一つの述語と考えられるものが、実は主語と述語の結合のであったりする事実にも言及している。前者の例として(あまりにも有名で、後に論争となった)、
● 象は(主語) 《鼻(主語)長し(述語)》(述語)。
 という文を挙げている。
 後者の例としては
● 《うら(主語)淋し(述語)》(述語) 《心(主語)ざす(述語》(述語)
 を挙げている。
 著者は「象は鼻が長い」という文について、「長い」という表現は、現実に象を見た場合の状態の表現であり、その際、象も鼻も潜在意識としてそこに包含された総合的表現であるとし、このような表現が完全性を得るために、①鼻が長い ②象は鼻が長い ③鼻が象は長い、のように(主語述語修飾語に)分析され、③の場合においては、主語「象」は述語の中間に分析されて現れることは注目すべき現象であると述べている。
 ここで著者が「象は鼻が長い」という例文を挙げたのは、主語述語が欠けているということは、表現の省略ではなく、未分析の総合的表現であり、文の完結未完結には全く関係がないことを明らかにするためだと思われるが、私には十分理解できたとはいえない。ただ、その文において主語は「象は」であり、述語は「鼻が長い」であるということはよくわかった。 
 著者はさらに完結と完全の相違について係り結び、連歌の発句、俳句等に触れながら詳述しているが、その内容は私にとって難解すぎるので、せめて末尾の「国語において、文と文の完結しないものとは、截然と区別する必要があること、文の完結しないものを句と称し、あるいは、附属句を除いた完結句をも同様に句と称することは妥当である」ということに留意しながら、先を読み進めることにする。
(2017.11.4)