梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・43

四 文の成立条件
イ 文に関する学説の検討(略)
ロ 文の統一性
 文は、一つの統一体を構成する条件を必要とする。以下、文の意識を構成する諸条件について私見を述べる。
 まず私は、言語は話者の思想的内容を音声あるいは文字に表現する心的過程の一形式であると考える。さらに厳密にいえば、一つの単語は、それ自身このような過程的構造を持つので、我々の話語あるいは文章は、このような心的過程の繰り返しによる連続である。文とはこのような繰り返しの連続中に切り取ることができる、あるものでなければならない。 
 次に、思想の表現とは何か。我々がもし意識に映る種々な表象あるいは概念を、文字あるいは音声に表現して、山、川、月、花、行く、見る、走る等といった場合、それは意識の客体だけを表出したのであって、これを思想の表現とはいえないだろう。それは未だ自我それ自体の表現を伴っていない。しかし「山だ」「川だ」といった場合は、そこにはじめて言語主体の客体に対する判断作用の表出を見ることができる。ここではじめて思想が表出されたということができる。上の例は一面的表現であり抽象的すぎるが、現実的な我々の思想は、つねに、意識に現れる客体的な表象あるいは概念と同時に、それらに対する判断、感情、欲求、願望等のような自我の活動を伴うものであり、両者が合体してはじめて思想となるのである。 
 辞書に記載された「火事」という語は、それが我々に「火事」の表象を与えるだけでは一つの単語であるにすぎないが、今、目前に火事を見て「火事」と叫んだ時には、この表現には、表象と同時に、この表象に対する判断、感情等が伴っていることは確かである。火事という事物が、言語主体においてある統一を受けていると見ることができる。このような主客合一した境地があってはじめて「火事」という言語的表現が成立するのであり、「火事」という語が文として認められる根拠となるのである。それは、この表現が、「火事が起こった」「火事を見よ」等の論理的判断を表現していると認めて文といおうとしているのではない。またこの語が現実の場面に使用されたから文というのでもない。この場合、言語主体の感情的活動が、この表象を包み、主客の合一した統一的思想として表現されていると考えることによって文と考えられるのである。この場合、表象に加えられた主体的活動が、言語形式に表現されず、音の抑揚、強弱等によって、この語に累加されていることによって、辞書的語とは本質的に異なるのである。このような累加的表現を「火事!」「火事?」のように記載することがある。累加的表現は、もし表現にゆとりが許されるなら「火事よ」「火事だ」「火事か」等のように線条化される。これらの表現は、内容的にも形式的にも思想の表現といえるので、文の意識の成立の一つの条件はここにあると思う。語としての表現と、文としての表現の相違は次のように図解できる。
● 辞書的語彙として        《火事》   あるいは「火事」
● 思想の表現すなわち文として 《火事》(■) あるいは「火事」(■)
 *■は自我の活動の表現が言語形式ゼロの場合を示す。
 このようにして、例えば「蛙飛び込む水の音」は、表象の表現と同時に、それに志向する複雑な感情が、言語形式零の形でこの客体的表象を包んでいると考えられる。図示すれば、
● 《蛙飛び込む水の音》(■)
 これが文と認められる所以である。
このような表現がさらに分析されれば、
● 《三笠の山に出でし月》(かも)
 となり、思想の客体と同時に、主体的感情「かも」がこれに添加し、線条的に表現される。「かも」は、主体的感情それ自体の表現であって、対象化、客体化された事物の表現である「三笠の山に出し月」とは根本的に区別されなければならない。


 文が思想の表現であり、思想は客体界と主体との結合した体験にあるとするなら、文は詞と辞との結合によって表現されるといえるだろう。
「花・か」「花・よ」「花・なり」「花・だ」「花・らしい」等は、皆、文と考えられる。
 次に、用言は、辞書的語彙としては属性概念を表すが、具体的な思想の表現においては、ある事物についての判断を、言語形式零の形で累加する。例えば、「暖い」「咲く」と行った場合、「暖い」と判断し、「咲く」と陳述する言語の主体的活動は、言語形式には現れてこない。しかし、このような主体の活動が存在していると見る限り、これも思想の表現であって、文と考えなければならない。図示すれば、
● 《暖い》(■)  《咲く》(■) 
 この零記号の表現も、もし判断が肯定から否定、想像、疑問等に移れば、以下のように線条的になるのである。
● 《暖く》(ない) 《咲か》(ない)  《暖い》(か)  《咲く》(か)  《暖い》(らしい)  《咲く》(らしい)
 上のような用言が文と認められるのは、これらの語が「風が暖い」「花が咲く」というような、主語述語を含む論理的形式に置き換えられるからではなく、主客の合一した思想の表現として認められるからである。命令形が一つの文として認められる根拠も同様である。命令は要求であって、主体の活動である。それはしばしば零記号で表現される。
● 立つ!  気をつける!
 言語形式における表現としては、一つは詞の音韻の転換により、また辞の添加による。
● 《立て》(e)  《咲け》(e)
● 《気をつけ》(よ)  《起き》(ろ)
 一般に文の認定の有力な条件として、主語述語がそなわるということが要求されている。しかし、文において必要なのは、主語述語のような文の客体的なものではなく、これを統合する主体であり、陳述である。


 文の意識を別の見地からいえば、統一された思想の表現であるということができる。思想がどのようにして統一的に表現されるかということは、もっぱら辞の総括機能に基づくものである。総括機能とは、引用文の下にくる「と」のように、(『・・・』(と)いう)、括弧の中のすべての語を総括するものをいう。以下の「よ」「や」「む」も同様である。
● 《妙なる笛の音》(よ)
● 《あっぱれなる武者振り》(や)
● 《我は書を読ま》(む)
 上の「む」は話者の意志の直接表現であり、それは「我は」以下全部を総括し、その全体に対する主体的志向を表している。
 総括機能は、辞の持つ特有の機能であり、その点、助詞、助動詞は全く共通している。用言に累加される陳述作用が、機能的に見て助詞助動詞と同様であることは既述したが、この三者、助詞助動詞陳述作用は、それによって総括される語および語群の直下に接続し、整然とした一体系を形作る。重要なのは主語述語ではなく、辞および陳述の表現であって、これらを除いては、文の統一は成立しないのである。


 印欧語においては、主体的な統一機能の表現は、S(主語)-P(述語)の形式によって示されるように、素材的客体的語の中間にあってこれを連結する形で表現されており、この連結する語を繋辞(copula)ということに理由がある。
● He is a boy.
 のisがそれである。繋辞が形の上に現れず、賓辞に含まれている場合においても、繋辞がやはり中間にあるものと認定する。
● The dog runs.
 においては、runsはその中に繋辞を含んでいるが、これを次のような形に改め理解するのが常である。
● The dog (is) runninng.
● The dog (is) in the state of runninng.
 この形式を国語にも適用して、
● 柳(は)緑、花(は)紅。
● 犬(が)走る。
 等における「は」「が」を「柳」と「緑」、「花」と「紅」、「犬」と「走る」等を繋ぐ語であるように考えることがしばしばあるが(速水滉博士「論理学」)、それは承認できない。国語における総括辞は、総括される語の最後におかれて、これらを包むような形で全体を統一している。
 文の第一条件は、統一にあり、統一されるものにあるのではないことは、国語においても、印欧語においても同様である。従って、主語述語の存在ということは、文の成立の不可欠の条件ではない。印欧語において主語述語を必要とするのは、全く言語の構造と習慣に基づくものであり、国語において主語が省略されるのは、文の特例に属するものではないと考えるべきである。


【感想】
 著者は「イ 文に関する学説の検討」の末尾で、その内容を要約し、①従来の文に関する論理主義的見解を批判し、②文の成立条件としての完結の概念について一言し、③現代日本の代表的文法学説として山田孝雄博士の所説について、妥当と考えられる点と、矛盾していると考えられる点を指摘し、④私の見解もこれに加えた、と述べている。さらに「次項においては、私の根本的な立場から、国語の文の特質がどこにあるかを明らかにしたい」ということなので、「イ」の項よりも先に、「ロ 文の統一性」を読むことにする。
 文の特質はどこにあるか。文とは何かということについて、著者の見解は、まことに明解である。一言でいえば、話者が思想的内容を音声あるいは文字で表現する心的過程の一形式(の繰り返しの連続中に切り取ることができる、あるもの)の一部であるということである。「火事」という語は辞書の中では単語だが、ある人が今、目前に火事を見て「火事」と叫んだ時には「文」となる。言語主体(話者)の感情的活動が、火事という具体的事象(客体)を包み、主客の合一した統一的思想として表現されていると考えられるからである。「暖い」「咲く」という用言であっても、話者がある対象を見て、相手にそう言った場合には「文」となるということである。文字表現で「火事!」「火事?」などと記載される場合も「文」である。
 著者は、文の成立の第一条件として「詞と辞の結合」を挙げている。上の例では辞は見当たらないが、「!」「?」で表される「零記号の辞」が存在していると考えるのである。
 主語述語の存在が、「文」が成立するための不可欠の条件ではないという説明が、きわめて単純明快であった。
 「花か」「花よ」「花だ」「花らしい」は、すべて「詞と辞の結合」であり「文」であるということがよくわかった。
(2017.11.3)