梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・42

三 単語の排列形式と入子型構造形式
 国語における語の排列形式を全面的に考察し、思想表現の構造を明らかにしたい。それは、国語における文の概念を明らかにするために必要な階梯である。
 文の分解によって認定される具体的なものは、つねに詞辞の結合であること、この詞辞の結合は、音声的にも一つの集団を作っているので、その認定は自然的であり、学問的操作を要しない。(橋本進吉博士・「国語法要説」・文節)橋本氏は、このような文の区画を文節と命名され、文節は文を分解して最初に得られる単位であり、直接に文を構成する成分(組成要素)であるといわれた。文節は、いわば文と単語との中間に位置する単語の結合体であるので、それが単語及び文とどのような関係に立つものであるかを明らかにしておきたい。
 文節は、文における節であり、それは竹の節を想像するように、文における区画の一片を意味する。文節が集まって文を作り、文節が文の構成要素であるということは一応認めることができる。
●〈花が〉〈咲いた。〉・・・・・・・・・・文節による分解  
● 花が(主語)・咲いた。(述語)・・・・構成要素による分解
 この例では、文節的分解が思想の構成と相併行することが認められるが、
●〈勺の〉〈高い〉〈花が〉〈咲いた〉。・・・・・・文節による分解
● 勺の高い花が(主語)・咲いた。(述語)・・・構成要素による分解
 のように、文節的分解と構成要素による分解とが一致しない。両者ともに思想を基準にした分解であるにもかかわらず、どうしてこのような矛盾が生じるのだろうか。この矛盾はどのようにして解決できるのだろうか。
 詞と辞との結合においては、辞は詞を総括する機能の表現である。「勺の高い花が」の「が」は、単に「花」と結合しているだけではなく「勺の高い花」全体を総括する関係において結合しているといわなければならない。「が」は「花が」という音声的集団を超越して、「勺の高い花」全体に対して意味的連関を持っていることになる。その関係を図示すれば、
● 勺の高い花が・・・《「勺の高い花」が》・・・勺の高い花・(が)
 「た」も同様に、単に「咲い」あるいは「花が咲い」に結合しているのではなく、話し手の断定の表現として「勺の高い花が咲く」という事実全体を包んでこれを総括していると見なければならない。すなわち、
● 勺の高い花が咲いた。・・・《「勺の高い花が咲い」た》・・・勺の高い花が咲い・(た)
 このように、「が」と「た」の総括機能を認めるならば、上の文は結局、どのような構造になるかというと、次のように考えなければならない。
●{《勺の高い花》(が)咲い}(た)・・・「《勺の高い花》(が)」咲い(た)
 「花」に対して修飾格の位置に立っているものは「高い」ではなく、「勺の高い」全体である。「高い」が連体形で体言「花」に接続していると考えるのは形式的接続関係についてだけいえるのであり、意味的には「勺の高い」全体が「花」に接続していると考えなければならない。「風寒き夜」「雪降る朝」のような例でも、「夜」「朝」に接続するのは、それぞれ「風寒き」「雪降る」という句全体である。そしてこれらの句が全体として体言に接続するためには、あらかじめ「勺の高い」が全体として総括されていなければならない。この場合、この句は総括する辞を欠いているが、そこには修飾格としての位格を表す零記号の辞が存在していると考えなければならない。すなわち、
● 《勺の高い》■・・・・「勺の高い」(■)
 このように零記号の辞を想定することは、次のような例から類推することが可能である。例えば、「紫色の花」の「花」に接続するのは「紫色の」であって、この場合は、修飾格を表すものは、辞「の」である。これを次のように図示することができる。
● 《紫色》の・・・「紫色」(の)
 この構造からして、前例の「勺の高い」は、そこに零記号の辞が接続していると見て差し支えないと思うのである。一般には、「高い」という語自身が修飾格を同時に表しているように考えられているが、他の例との比較の上から、零記号は述語に添加したものと考える方が妥当であると思う。
 次に、「勺の高い」について考えて見ると、辞「の」は、詞「勺」を総括して「高い」という詞に主格として包摂されるのであって、この場合、詞「勺」に主格という位格を付与するものは辞「の」であるから、これを次のように図示することができる。
● 《勺》の・・・「勺」(の)
 従って「尺の高い」は次のようになる。
● {《勺》(の)高い}■・・・・《「勺」(の)高い》(■)
 以上のように分解されたものを、分解の究極のものから順次に排列してみると、
● 《勺》の・・・「勺」(の)・・・・・・・・・・・・・a
● 《高い》■・・・・「高い」(■)・・・・・・・・・・b
● 《花》が・・・・・「花」(が)・・・・・・・・・・・c
● 《咲い》た・・・・「咲い」(た)・・・・・・・・・・d
 国語における思想の表現は、詞辞の意味的連関を基礎にして分析すれば上のようになるはずであり、これを単なる主語述語の対立関係として見るのは、詞辞の本質的関係を詳らかにしないものである。国語の構造は、主語述語の対立をSーPの形によって統一する印欧語のようなものと同様に考えることはできないのである。
 以上のように分析された、次のような形式において順次総括されて、最後に統一した思想を表現するのである。
● [{《〈a〉b》c}d]・・・[{〈勺〉(の)《高い》■}花が]咲い(た)
 上のような言語の統一形式は、辞が詞を総括することから風呂敷型構造形式と呼ぶべきものだが、形式が重なり合ってさらに大きな統一へ進展するので、これを入子型構造形式と呼ぶことができると思う。入子型とは、例えば三重の盃のようなものである。大盃は中盃をその上に載せ、中盃はさらに小盃をその上に載せて、全体として三段組の盃を構成している。大盃、中盃、小盃はそれぞれその容積を異にするが、盃としての本質は等しいので、これを三段組の単位ということができるが、それは質的単位の意味においてである。
大盃、中盃、小盃は独立した統一体だが、同時に全体に対して部分の関係にある。このような構造が、入子型構造である。国語の単語の排列形式は、上のような入子型構造形式に例えることができる。
 従来、文章法上で説かれた主語述語の関係、対立したものの結合の観念を脱却し、統一には別の形式においても考えられるということを知る時、国語の表現形式は別の意味において理解されることとなる。たとえば、ここに一冊の本があるとする。それが単に私の前に置かれている時は、一個の物として存在しているに過ぎない。今これを私が風呂敷で包んだとするなら、その時この一冊の本は、私と特別な関係に置かれたことを意味するのであり、私によって総括され統一されたと考えることができる。少なくとも、それは他の物と区別されることになる。統一され、総括されるものが二個以上存在しなければ、統一、総括は成立しないと考えることは、極めて窮屈な考え方である。統一とか、総括とかの原理は、主体の機能にあるのであって、機能の客体にあるのではない。従ってSーPの関係においても、重要なのは、SやPではなく、これをつなぐ横線にあると見なければならない。国語においてはしばしば主語が省略されて「淋しい」とか「走る」とかいっただけで、統一ある思想が表現されていると考えられている。もしSとPとが存在しなければ統一を表すことができないと考えるならば、国語の形式は極めて不完全なものであるといわざるを得ない。しかし、上の例を
● 《淋しい》■   《走る》■
 のように、零記号の陳述によって包まれたものであり、そこに包む統一形式が存在していると考えれば、これだけですでに立派な統一的表現と考えられるのである。国語において主語の省略ということを、特例と考えることは全く当たらない。それは省略ではなく、主語を表現するには及ばない形式というべきである。
 以上のように考えると、橋本博士の文節論と文章法的分解との矛盾を克服する道が開かれてくる。
● 私は・昨日・友人と・二人で・丸善へ・本を・買いに・行きました。(「国語法概説」
・橋本進吉博士)
 橋本氏は、文節は順次互いに竹の節のように結合されていると考え、いわば原子論的排列形式による結合として理解された。上の文節は、私がすでに述べた詞辞の結合単位、入子型の単位、「《詞》辞」と合致するものであって、もしその文節を、原子論的排列形式から入子型構造形式に改めれば、上の文節論は、完全に文章法的分解と合致することができるのである。事実、文節の結合は、この原子論的形式においては、全体的統一を説明することができない。それは、単なる順次的連鎖状を示すに過ぎないのである。しかし、上の文節論と文章法的分解との対立を克服してこれを一致させるためには、単に原子論的構造を入子型構造に改めたというだけでは、完全な理論的克服をの意味にはならないのであって、この発展は詞辞の本質に対する根本観念に基礎を求めなければならない。


【感想】
 ここでは、橋本進吉博士が「文節は文を分解して最初に得られる単位であって、直接に文を構成する成分(組成要素)である」(「国語法要説」・文節)と述べていることについて、著者の見解(批判)が説明されている。
 「花が咲いた」という例文では、
● 花が・咲いた。・・・・・・・・・・・文節による分解
● 花が(主語) 咲いた。(述語)・・・・構成要素による分解   
  のように、文節的分解と構成要素による分解が一致するが、
 「勺の高い花が咲いた」という例文になると、
● 勺の・高い・花が・咲いた・・・・・・・・・文節による分解
● 勺の高い花が(主語) 咲いた(述語)・・・・構成要素による分解
 となり、文節的分解と構成要素による分解とが一致しない、という矛盾が生じる。橋本博士の「学校文法」では、「勺の」は「高い」を修飾し、「高い」は「花」を修飾する。主語は「花」であり、述語は「咲いた」である、というように説明する。しかし著者は、この文の主語は「尺の高い花が」であり、述語は「咲いた」であるとしている。しかも、「勺の高い花が」という結合は、入子型構造になっており、「勺」は「の」に包まれ、「勺の」は「高い」(■)の零記号に包まれて「花」の修飾格となり、「花」は「が」に包まれて主格となる、と説明している。なるほど、単に文を文節に分解して、それを主語、述語、修飾語、独立語に分類するだけでは、その文が表している思想を的確に理解することはできない、ということがわかったような気がする。
 さらに著者は、国語を印欧語のSーP(主語ー述語)の関係で考察することの「的外れ」にも言及している。国語における主語の省略は、特例ではなく、「主語が表現されるに及ばない形式である」という指摘や「SーPの関係の場合においても、重要なのはSやPでではなく、それをつなぐ横線にあるとみなければならない」という解説がたいそうおもしろかった。
 いずれにせよ、(学校教育で採用されている)橋本文法の「文節による順次的連鎖状」による原子論的構造に比べて、著者の入子型構造を理解することは、複雑難解であり、児童生徒に教えることは困難である、というような風潮があることはたしかであろう。
(2017.11.1)