梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・41

 山田孝雄氏は助動詞を複語尾として辞の概念より切り離し、動詞が語尾を分出したものと考えられた。接尾語(接尾辞)は、単語の内部の遊離した部分であって、これが附属して新しい概念を有する単語を構成するものと考えられた。この見解においては、複語尾は動詞に附属して新しい単語を構成するものであり、接尾語はその他の種々な語に接続して新しい単語を構成するものであるという区別以外に、本質的相違を認めることができない。 橋本進吉氏は、助動詞と接尾語は共に独立しない語であって、他の語に附属して新しい語を構成するという共通点があって、その差異を認めることが困難であるといわれた。そして、助動詞と接尾語との区別は根本的でなく、程度の差に過ぎないとされた。(「国語法要説」)「たがる」を口語の助動詞とされたのはこの根拠に基づかれたものである。
 この両氏の見解は、その根本に遡れば、語が独立的に用いられるか、他の語に附属して用いられるかということが、一貫して語類別の基準として考えられていると見てよいだろう。その結果、助動詞と接尾語の間にはっきりとした区別を見出すことが不可能になったと私は考える。国語において、語の独立非独立が、語の一貫した分類基準になり得ないことはすでに述べた。(ハ 「詞辞の下位分類」参照)
 これに反して、助動詞と接尾語との本質を決定するものを、詞辞の分別を決定する、語の表現性の上に求めたならばどうであろうか。接尾語は、詞の中で独立せず、つねに他の語に附属するが、詞としての本質をどこまでも持っている。形式的には辞と類似しているが、その表現性において全く相違することが、接尾語と辞を分別する最も重要な点である。
 表現性の相違ということは、⑴概念過程を持っており、客体的事物を表現できるものと、主体的なもののみを表現できるもの、⑵総括機能を持たないものと、持つもの、⑶同一次元において入子(いれこ)型構造形式に統合されるものと、異次元においてこれを包むもの等の相違がある。例えば、「私は」のような結合は、
● 私は・・・私・は・・・《「私」は》・・・私+は
 のように、「私」に「は」の加わった形に分析図解できるが、それに対して「走り去る」のような場合は、
● 走り去る・・・走り・去る・・・《「走り」去る》・・・走り×去る
 のように、「走り」が「去る」に掛け合わされた形に分析図解できるのであって、「走り」は結局「去る」という概念の中に統合されてしまうのである。「走り」も「去る」も独立的な語だが、「春めく」の「めく」のように独立しない語の場合も同様である。
● 春めく・・・春・めく・・・《「春」めく》・・・春×めく
 「春」は「めく」という概念の限定語であって、これが全体で、一つの大きな概念を構成するのである。「めく」は独立しては用いられないが、一つの独立した概念の表現であることに相違はない。「めく」のような語を接尾語というが、その本質から見て、他の詞と差異を見出すことはできない。これに対して「行かず」というような結合は、
● 行かず・・・行か・ず・・・《「行か」ず》・・・行か+ず
「ず」は「行か」をその中に統合するのではなく、異次元の表現として、外からこれを総括しているのである。
 従って、「春めく」「走り去る」は、時には一語として取り扱うことができても、「行かず」は異次元の表現の結合として、一つの語として取り扱うことはできない。辞と認められるものは、すべてこのような加えられた関係で結合しているのである。
 私が助動詞から除外することを主張した「る」「らる」「す」「さす」「しむ」などは、詞辞の結合とは別で、詞と詞との結合として考えるべきである。
● 怪しまる・・・怪しま・る・・・《「怪しま」る》・・・怪しま×る
● 受けさす・・・受け・さす・・・《「受け」さす》・・・受け×さす
 「彼は怪しま(む)」と辞の加わったものは、
● 彼は(主語) 怪しま(述語) む(辞)
 主語「彼」の述語は「怪しま」であって「む」は、この言語主体(話し手)の想像の表現であり、「彼」の想像とはいうことができない。これに対して「彼は怪しまる」と接尾語「る」の添ったものは、
● 彼は(主語) 怪しまる(述語)。
 のように、主語「彼」に対する述語は「る」であり、さらに「怪しまる」全体である。「る」は「そのようにされる」ということを表す語だが「る」の内容を規定する「怪しま」と結合して具体的表現となり得るので「る」は接尾語であるということができるのである。 これは体言的な接尾語にもいえることである。
● 寒(さ)が はげしい。
 述語「はげしい」に対する主語は、厳密には程度の概念を表す「さ」であり、さらにこれを規定する語の結合した「寒さ」である。上の「が」は「寒さ」とは異次元のものであるから、その中に「寒さ」を統合して全体概念を作ることができない。
 一般に、言語における呼応の現象は、詞は詞と呼応し、辞は辞と呼応するのが原則である。
● 寒(さ)が (はげしい)。  詞の呼応
● 寒さ(こそ) はげし(けれ) 辞の呼応
 「さ」は「はげしい」と呼応するが、辞「こそ」は、概念「はげし」と呼応するのではなく「はげし」の陳述的変化「はげしけれ」と呼応するのである。
● 石川が 来た。
● 石川様が 見えられた。
● 石川閣下が お見えになられた。
 上の例で、「様」「閣下」という接尾語の添加によって、述語はそれに呼応して「見えられ」「お見えになられ」という風に変化する。この述語に加えられた「られ」「お・・になられ」が詞であるために接尾語と相呼応するのである。


 接尾語が本質的に詞と相違するものではなく、ただ形式上独立しない語であるということは、以下の事実からの実証できる。
1 かつて、また現に独立的に用いられる詞が、その概念内容を変化することなく付属的に用いられる。
 ども(子ども 私ども) け(寒け 眠け) めかす(時めかす 今めかす) ぶる(才子ぶる もったいぶる)
2 接尾語と他の語との意味的連関は、一般の詞と同様である。山田孝雄氏は、接尾語は単語の内部における遊離した部分であると定義された(「日本文法学概論」)が、もしそのように考えるならば、接尾語と他の詞とを同列に認めることはできない。しかし、国語の接尾語は、語の構成要素として考えることができない。「淋しさ」「赤み」「春めく」等の接尾語を見ると、それらは語の構成要素としか考えられないが、次の例を見ると、接尾語の機能は全く他の独立的な詞と同様に見なければならないことがわかる。
● 何か事ありげ
 この「げ」は「ありげ」という一語の内部的要素ではなく、次のように分析されなければならない。
● 何か事あり・げ
 「げ」は「あり」に直結するのではなく、「事」「あり」が結合したもの全体に結合するのである。さらにいえば、「事あり」は「何か」を包摂しているから「げ」は実際は「何か事あり」全体を包摂し統合していると考えなければならない。これは入子型構造形式の特質であって、「げ」は、
● 何か事ある様
 の「様」と同様に、上接の語全体と関係するのである。
 以下、接尾語と認められる語の特殊な物を列挙する。
①助動詞
 ふつ(か) みつ(か) ひと(つ) ふた(つ)
②吉澤義則氏のいわゆる不完全名詞
 忘るる(折)もあらん  歌の(やう)にもあらず
③形容詞構成の「し」は、それだけで極めて抽象的な概念をもつ詞と考えることができる。 大人(し) 誠(し) 腹立た(し) 色めか(し)
 親とおぼ(しき)人
④いわゆる延言の「ふ」
 うつる→うつら(ふ) ちる→ちら(ふ) ながる→ながら(ふ)
⑤「る」「らる」「す」「さす」「しむ」(既述)
 犬をはげしく打た(す) 正しく読ま(す) 突然に読ま(す)
⑥「・・・のごと」「ごとし」「のごとし」は、しばしば比況の助動詞といわれているが、実は接尾語の特殊なもので「ごと」は体言、「し」は前例の「し」と同様である。
 水の流るる(ごと)   木の葉の散るが(ごと)
 水の流るる(ごとし)  木の葉の散るが(ごとし)
⑦「たがる」
 本を読み(たがる)  都に出(たがる)


 以上、接尾語は国語においては語の構成要素ではなく、本質的には他の独立的な詞と全く同様に考えなくてはならないことを明らかにしてきた。
 しかし、接尾語を独立した詞と同等に扱うとすれば、国語における単語の概念も西洋文典とは著しく異なったものでなければならない。西洋語の単語は、多く詞辞の結合したものに相当し、具体性を持っているが、国語における詞辞の分析から得られる単語は抽象的にならざるを得ない。また国語の単語排列形式から見ても、単語はしばしば、その中に包摂される入子(いれこ)をまってはじめて具体性を持ちうる場合が多く、単語それ自身についていえば、全く抽象的概念だけを持つようなものがあるのは当然と考えられる。
 以上の2点から、接尾語を詞と同等に扱うことは不合理ではないと思う。


【感想】
 ここでは辞と接尾語の本質的相違について述べられている。山田孝雄、橋本進吉らの文法では、語が独立的に用いられるか、他の語に附属して用いられるを語類別の基準にしているので、辞(助動詞)と接尾語の本質的相違を明らかにできない。これに対して、著者は語の《表現性》の相違で詞辞を分別しようとしている。詞は、①概念過程を持っていて客体的事実を表現する。②総括機能を持たない。③同一次元において入子構造形式に統合される。辞は、①主体的なものだけを表現できる、②総括機能を持つ、③異次元において詞を包む、と要約している。
 「私は」の「は」は辞だが、「走り去る」は詞である。「春めく」の「めく」は概念の表現であり詞(接尾語)である。「彼は怪しまむ」の「む」は言語主体(話し手)の推量を表す辞だが、「彼は怪しまる」の「る」は接尾語である。
 同様に、「寒さ」の「さ」、「子ども」の「ども」、「寒け」の「け」、「もったいぶる」の「ぶる」、「何か事ありげ」の「げ」、「ふつか(二日)」の「か」、「ひとつ」の「つ」、「腹立たし」の「し」、「本を読みたがる」の「たがる」なども接尾語であり、詞として扱うべきとされている。
 私はこれまで「学校文法」に従い、単独で文節を作れる自立語と、自立語に付属して文節を作る付属語に単語を分類し、自立語の中で活用のある用言(動詞、形容詞、形容動詞)、活用のない体言(名詞、副詞、連体詞、接続詞、感動詞)、付属語の中で活用のある助動詞、活用のない助詞というような区別をしてきたが、著者はまず語を「詞」と「辞」に分類する。その考え方からどのような結論が導きだされるのか、実に興味深い。次節は、いよいよその単語について言及されることになる。期待を込めて読み進みたい。
(2017.10.29)