梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・39

 次に、辞より詞に転換する場合について述べる。
 詞の総合的表現においては、しばしば主観と客観との対応が総合的に表現されているが、詞辞の転換においても同じようなことがいえる。ここでは、主体と客体との総合的表現が認められるのである。「花が咲かない」の「ない」に対応するものは「花が咲くことが存在しない」という客体的事実であって、「咲かない」が全体として「花」に対する述語としての役割を持ち、「咲かない」が一つの形容詞とも考えられる。「ない」を一般の否定辞として扱っても差し支えないが、次の例ではよほど趣が変わってくる。
● 切符の切ら(ない)方はありませんか。
 「花が咲かない」の「ない」は「花が咲く」全体を総括し、これを否認することを表現しているが、「切符のきらない」の「ない」が「切符の切ら」を総括しているとは考えられない。この場合、「切らない」という表現は、それに対応する客観的事実である「切ってもらっていない 」「未購入」という事実の表現となる。従って「切符の切らない」という表現は、構造上からは、「切符の赤い」「顔の白い」というような表現と同形式のものとなり、「切らない」は「赤い」「白い」と同様にそれ自身「切符」の述語となるのである。その区別を図示すると次のようになる。
● 切符を切らない。・・・・切符を切ら(ない)  「ない」は否定辞
● 切符の切らない。・・・・切符の(切らない) 「ない」は「切ら」と合して形容詞を構成する接尾語となる
 ただし、上の場合は「ない」が上の語と合体して一時的に詞としての資格を獲得したのであって、「ない」を最初から詞と認めたのではない。詞としての「ない」は、動詞未然形に接続することは決してないからである。ただ、「切らない」が全体としてそれに対応する客体的事実の表現である詞と同じ資格を持つに過ぎないのである。
● あれは狐(らしい)。
● あの方は男(らしい)。
 「あれは狐らしい」の「らしい」は、話し手の想像的判断であって、他の辞と全く同じ用法である。「あの方は男らしい」は、「男性的だ」という意味で、「女らしい」「子どもらしい」「いやらしい」と同様に、一語として詞の役目を持っている。この場合は、まず辞としての「らしい」があって、それが後に詞としての「○○らしい」が成立したと考えられる。「らしい」は想像的判断であるが、そのような判断に対する客体的属性は「そのような様子のもの」であり、さらに「そのものの本質を発揮しているもの」の意味に転じたものであろうと思う。「らしい」については、それが詞に転じたものは、詞としての機能を持ち、かつその意味を次第に変化しているのだから、これは詞と辞とに両様に存在するものと考えるのが適切である。
 「まし」についても同様である。
● 花も咲か(まし)。
● かようにておはせ(ましか)ば、うれしから(まし)。
 上は辞としての用法であるが、
● いは(まし)ごと(「源氏物語」・夕顔)
● あら(まし)の熊野詣をもせず(「平家物語」・成経等赦免事)
● 僧都余の悲さに船の舳へに走りまわり乗てはをり下ては乗りあら(まし)をせらける有様(同上)
● 大やう人を見るにすこし心あるきはは皆このあら(まし)にてぞ一期はすぐめる(徒然草・第五十九)
 上の「いはまし」「あらまし」は事実にないことを心に希望する意味だが、詞と結合して、全体として詞に転じる時、現にないことに対する期待とか予定とかの意味を表すに至る。  
 なお、「たし」「まほし」を辞とする説があるが、この両語は、詞として見るのがよい。詞辞の転換によって両立する語は、客体と主体との意味の対応があるが、「たし」「まほし」は、全く同じ意味で、話し手の場合にも客体の表現の場合にも使用されているから、形容詞と見るべきである。
● 家にあり(たき)木。   *話し手の希望
● 見(たけれ)ば、見てもよい。  *第三者の希望
● 我も睦び聞えてあらま(ほしき)を  *話し手の希望
● その世のことも聞えま(ほしく)のみ思し渡るを *第三者の希望
 また、次のような「あらまほし」は、主観的表現から客観的表現のものに移ったので、詞としての転換であって、辞に対立する詞とは考えることができない。
● この一條の宮の御有様を、なほ(あらまほし)と心にとどめて。
● いと清げに(あらまほしう)行ひさらぼいて。
 この「あらまほし」は「あってほしい」という主観的感情に対応する客観的属性の概念であって、「理想的」「結構だ」というような意味を表す。また「たがる」というような語も、話し手の表現に用いられるところを見ると、辞のように考えられるが、同じ意味で客観的表現にも用いられるから、動詞を構成する接尾語として詞と考えなければならない。辞の本質は、主体的表現にのみ用いられるところにあるのであって、主体的にも客体的にも同様に用いられるものは辞ではなく詞である。詞辞の転換は、同一語形の語が、詞と辞においてまったくその表現性を異にするためにいわれることである。


【感想】
 ここで著者が述べている内容も、私には難解で十分に理解したとは言いがたい。ともかくも、辞が詞に転換する例として、「あれは狐らしい」の「らしい」は想像的判断の辞だが、「あの方は男らしい」の「らしい」は詞(形容詞)に転換していること、同様の例に「いはまし」「あらまし」「たし」「まほし」などがあることがわかった。
 著者は、辞の本質について〈辞の本質は、主体的表現にのみ用いられるところにあるのであって、主体的にも客体的にも同様に用いられるものは辞ではなく詞である。詞辞の転換は、同一語形の語が、詞と辞においてまったくその表現性を異にするためにいわれることである〉と述べているが、その《表現性を異にする》という部分が、いまひとつ判然としなかった。(2017.10.27)