梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・38

ヘ 詞辞の転換及び辞と接尾語との本質的相違
 詞と辞とは語の性質上本質的に相違すものだが、「あり」に詞としての用法と、辞としての用法があるということは、どのようなことを意味するのだろうか。
 最初から「あり」に二つの用法があったと解すべきか、または一方の用法が他の用法に転換したと解するのが妥当であるか。「あり」の場合においては、おそらく詞としての動詞的用法にあるものが、辞としての用法に転換したと考えるのが適切だと思われる。それは、動詞的な「あり」の用法と同様に存在伺候を表す「侍り」「候ふ」が後に敬いを表す判断辞(敬譲の助動詞とは別である)となったことによっても、想像できる。
 もし、このように一方より他方への用法の転換ということが事実であるならば、その事実は何によるものであるかを明らかにしなければならない。辞が主体的事実の直接的表現であるとするならば、このような主体的事実に対応する客体的事実が存在するのは当然である。これに対応して事実の非存在ということがなければならない。「花咲かず」という表現が成立するためには、客体的には「花が咲く」という事実の非存在が考えられなければならない。この志向作用と志向対象との対応ということが、概念的表現の「なし」が否定的陳述の「なし」に転換する重要な契機になると考えられる。概念的表現の「なし」は、非存在を概念化し、客体化して表現することであり、否定的陳述の「なし」は非存在を認めることの表現である。これを図示すると以下のようになる。


○主体→→→→(ハ)→→→→客体 ↑(イ)
                  ↓(ロ)
 (イ、ロ)という客体的事実は、(ハ)という主体的認定によって成立するのである。詞は(イ、ロ)の表現であり、辞は(ハ)の表現である。


《注》客体と主体との対応について注意したいこと
 「花よ」という文において、「花」に対する感情の表現「よ」に対応するものは「花」ではない。「花」は「よ」という表現の機縁に過ぎない。「よ」に対応する客体的事実は「花が美しい」「花が可憐である」というような事実である。同様に「花咲かず」の否定「ず」に対応するものは「花咲く」という事実ではなく「花が咲くことが存在しない」という客体的事実である。この対応の理を明らかにするためには、次のような事実を知る必要がある。


 詞はすべて客体的事実の表現であって、客体的事実を表す「走る」「白い」などと、主観的事実を表す「怒る」「悲し」などと本質的に区別があるわけではない。
 今、詞のみに限定して考えて見ると、次のような語については、そこに客体的事実と主観的事実との対応が認められる。


   主観的感情の概念的表現として(必ずしも言語の主体的感情に限らない)
● 雨は淋しい↗
   ↘ 雨の属性の概念的表現として


 雨を機縁とする主観的な「淋しい」という感情は、同時に雨の属性がこれに対応しているのであって、一般には「淋しい」という語は、同時に主観的感情とこれに対応する客観的属性とを総合的に表現しているのであるが、このことはこの語の表現性が、主観か客観かのいずれかに傾く契機を持つことを意味するのである。
● 淋しい模様。 客観的属性のみを表現している
● 私は淋しい。 主観的感情的概念のみを表現している
 これに対して「雨は淋しい」は、客観主観を総合した表現であるということができる。以上のような対応と分化は、もっぱら客体的事実としての対応と分化であり、いずれも詞としての用法の範囲を出るものではない。
 次の例についても同じことがいえる。


    私は聞こえる 主観的能力の概念的表現
● 私は音が聞こえる↗
    ↘ 音が聞こえる 客観的属性の概念的表現


     この子はできた 主観的能力の概念的表現
● この子は算術ができた↗
     ↘ 算術ができた  客観的属性の概念的表現


 このような詞の総合的表現は、国語の一つの特質とも考えられる事実であって、語の意味変化の重要な根拠となる。これらの意味の転換は、深く国語の表現性にまで遡って考えなければならない。平安朝物語にしばしば現れてくる「恥し」という語が、時には主観的な「恥しい」という意味に解釈され、時には客観的な「立派だ」「端麗だ」という意味に解釈されることがある。その間に意味の懸絶があるように考えられるが、これを対応の理によって説明すれば、「恥しい」という意味は主観的側面であり、「立派だ」「端麗だ」というのは、それに対応する客観的属性であるということになり、この二つの意味は必ずしも懸け離れたものではないことがわかる。
 以上は、もっぱら詞としての限界内における転換だが、詞と辞との転換も同様な原理によって行われることがわかる。一般に、詞が辞に転換する時は、詞の概念内容が極度に稀薄になって辞に転換するようにいわれているが、それだけでは辞ではない。詞が辞に転換するということは、表現性の転換でなければならない。すでに述べたように、非存在を概念的に表現した時は詞であり、非存在を認める表現が辞となるのである。詞より辞へは連続的に移るのではなく、客体の概念的表現が、主体の直接的表現に裏返ることによって辞が成立すると考えなければならない。詞としての転換は、どこまでも包まれるものとしての領域を出ないが、詞が辞に転換することによってはじめて、包まれるものから包むものに転ずるのである。対応の原理とは、表に対する裏の関係をいうのである。


【感想】
 ここでは「詞辞の転換」について述べられている。
詞「あり」が辞「あり」に転換したのは、存在伺候を表す「侍り」「候ふ」が後に敬いを表す判断辞となったことから想像すると、詞としての動詞的用法が、辞としての用法に転換したと考えるべきだということである。
 さらに、著者は「なし」における詞辞の転換についても触れ、〈辞が主体的事実の直接的表現であるとするなら、その主体的事実に対応する客体的事実が存在するのは当然である。「花咲かず」という表現が成立するためには、客体的には「花が咲く」という事実の非存在が考えられなければならない。この志向作用と志向対象の対応ということが、概念的表現の「なし」が否定的陳述の「なし」に転換する重要な契機になると考えられる。概念的表現の「なし」は非存在を概念化し、否定的陳述の「なし」は非存在を認めることの表現である〉と説明しているが、「志向作用と志向対象の対応」ということが、私にとっては極めて難解であった。
 この「対応の原理」について、著者は「雨は淋しい」「私は音が聞こえる」「この子は算術ができた」という例文を挙げて説明している。「雨は淋しい」では、「私は淋しい」という主観的事実と、雨の属性として「淋しい」という客観的事実が《総合》的に表現されているということである。「私は音が聞こえる」では「私は聞こえる」という主観的能力の概念的表現と、「音が聞こえる」という客観的属性の概念的表現が《総合》的に表現されている。「この子は算術ができた」では、「この子はできた」という主観的能力の概念的表現と「算術ができた」という客観的属性の概念的表現が《総合》的に表現されているということでる。これらの《総合》的表現は〈国語の一つの特質とも考えられる事実であって、語の意味変化の重要な根拠となる。これらの意味の転換は、深く国語の表現性にまで遡って考えなければならない〉という説明も私には難解であった。著者は、平安朝文学での「恥し」という語には、〈時には主観的な「恥しい」という意味に解釈され、時には客観的な「立派だ」「端麗だ」という意味に解釈されることがある。その間に意味の懸絶があるように考えられるが、これを対応の理によって説明すれば、「恥しい」という意味は主観的側面であり、「立派だ」「端麗だ」というのは、それに対応する客観的属性であるということになり、この二つの意味は必ずしも懸け離れたものではないことがわかる〉と述べている。要するに、《総合》的表現は、国語の一つの特質であり、それが語の意味の転換を招いていることだろうか。
 以上は詞における意味の転換だが、著者はさらに〈詞が辞に転換するということは、表現性の転換でなければならない。すでに述べたように、非存在を概念的に表現した時は詞であり、非存在を認める表現が辞となるのである。詞より辞へは連続的に移るのではなく、客体の概念的表現が、主体の直接的表現に裏返ることによって辞が成立すると考えなければならない。詞としての転換は、どこまでも包まれるものとしての領域を出ないが、詞が辞に転換することによってはじめて、包まれるものから包むものに転ずるのである。対応の原理とは、表に対する裏の関係をいうのである〉とも述べている。
 この「客体の概念的表現が、主体の直接的表現に《裏返る》ことによって辞が成立する」という説明も、私には難解で「わかったようでわからない」という感想である。これらの疑問が解き明かされることを期待して、次を読み進めることにする。
(2017.10.26)