梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・30

ロ 詞辞の意味的連関
 詞は概念過程を経て成立したものであるから、主体に対立する客体界を表現し、辞は主体それ自身の直接的表現である。これを図に表せば次のようになる。


              C(詞)
  A(主体)→B(辞)↗
           ↘
             D(詞)


 「花よ」という詞辞の連結を例にして考えると、感動を表す「よ」は客体界を表す「花」に対して、志向作用と志向対象との関係で結ばれていると見ることができる。言語主体を囲繞する客体界CDと、それに対する主体的感情ABとの融合したものが、主体Aの直観的世界であり、これを分析し、一方を客体化し、他方それに対する感情として表現したものが「花よ」という言語表現になるのである。従って、この詞辞の意味的連関は。客体界CDを主体ABが包んでいるということができる。詞は包まれるものであり、辞は包むものである。「愛らしい花」「花が愛らしい」といった場合には、主体的感情がすでに概念化され、客体化されて「愛らしい」という詞によって表現されたので、その関係は包むものと包まれるもの、あるいは志向作用と志向対象の関係ではなく、両者ともに包まれるCDの位置に置かれたことになる。包むものと包まれるものとの関係は、ABとCDは秩序を異にし、次元を異にしているともいえる。たとえていうなら、風呂敷とその内容との関係である。内容である甲乙丙はすべて皆同一次元のものだが、これを包む風呂敷は、それらとは別の次元に属するものである。
 詞は「山」「川」「喜び」「悲しみ」などのように、客観的なもの、主観的なものの一切を客体化して表現するのだが、それだけでは思想内容の一面しか表現できない。
 辞は、これまた主体的なものしか表現できないので、具体的な思想はつねに主客の合一した世界であるから、詞辞の結合によってはじめて具体的な思想が表現できるのである。そしてその意味的関連は、次元を異にし、包むものと包まれるものとの関係にあるのである。
 さらに、言語主体の立場で見ると、辞は客体界に対する言語主体の総括機能の表現であり、統一の表現であるということができる。主体的な総括機能あるいは統一機能の表現の代表的なものを印欧語に求めれば、A is Bのisであり、いわゆる繋辞copuiaである。すなわち繋ぐことの表現である。印欧語においては、その言語の構造上、総括機能の表現は、一般に概念表現の語の中間に位置して、これを結合する。このようなA-Bの形によって表す、統一形式を私は仮に天秤型統一形式と呼ぶ。これに対して国語はその構造上、統一機能の表現は、統一され総括される語の最後に来るのが普通である。
 花咲くか。という場合、主体の表現である疑問「か」は最後に来て、「花咲く」という客体的事実を包みかつ統一しているのである。この形式を図示すれば、『「花咲く」・か』のような形式で示すことができる。この統一形式は、風呂敷型統一形式と呼ぶことができると思う。同様に『「彼読ま」・む』『「我読ま」・む』の「む」は、「我」に対応して、その推量を表したものではなく、文の主体の推量を表したものである。「我」と主体とは、同一物であっても、その表現からいえば「我」は主体の客体化されたものであるから、主体それ自身ではないのである。上の場合、「我」は「彼」と全く同等の地位を占める客体の表現に過ぎないことことを注意すべきである。
 助詞の場合も同様であり、『「山」・に』『「川」・へ』「『花」・も』等は、すべて客体を主体的なもので包み、ある一つの主体的統一を表していることを意味する。助詞「に」は、一般に物と物との関係を表す語であるといわれているが、そのような関係の認識は結局主体の物に対する認識に帰着するのであり、「山に」という表現によって、主体の物と物との関係に対する認定を理解できる。「山」はこうして主体に対してある連関があることが「に」によって表現されていると考えなくてはならない。「山に遊ぶ」は「山」と「遊ぶ」を繋ぐもののように考えるのは、主体的立場を除外している。
 ちなみに、『「○」・▲』の形の▲の意味は、引き出しの引手を象徴したものであり、引手は形式的には、引き出しの一部に付着しているにすぎないが、意味的には、引き出し全体を引き出すものとして、引き出しを統一し総括する関係に立っているもので、辞は引手と同様な関係であることを示している。



【感想】
 ここでは詞と辞の意味的連関について説明されている。「花よ」という言語表現において詞「花」は事物を客体化し、概念化した表現であるのに対して、辞「よ」は話し手(書き手)の感動をそのまま音声化した表現であり、主体の観念を顕したものである。なおかつ、「よ」は「花」を(風呂敷のように)包み込んでいるという表現形式であるという説明が大変分かりやすく、面白かった。「愛らしい花」「花が愛らしい」という表現は、主体の感情は「愛らしい」という詞で客体化されているので、包まれるものだけで、包むものは顕在化されていないということだが、「花が愛らしい」の辞「が」どのような働きをしているのだろうかという疑問が残った。 
 さらに「辞は客体界に対する言語主体の総括機能の表現であり、統一の表現であるということができる」とし、印欧語A is Bのisというbe動詞もまた、繋辞としてAとBを文の中間で結合する役目をしているが、日本語の場合は、「花咲く・か」「彼読ま・む」などのように文末で客体界を総括、統一している。著者は印欧語の場合を天秤型統一形式、日本語の場合を風呂敷型統一形式と呼び、その構造上の違いを明らかにしている。
 助詞の場合も同様であり、「山に」「川へ」「花も」の「に」「へ」「も」は「すべて客体を主体的なもので包み、ある一つの主体的統一を表していることを意味する」ということである。だとすれば先ほどの「花が愛らしい」の「が」も花を主体的なもので包み、ある一つの主体的統一を表していると考えてよいのだろうか。著者は、辞を引き出しの引手にたとえ、「引手は形式的には、引き出しの一部に付着しているにすぎないが、意味的には、引き出し全体を引き出すものとして、引き出しを統一し総括する関係に立っている」と述べている。なるほど、辞は客体表現の末部(後部)に付着して、意味的には客体表現全体を統一、総括するものだ、ということがわかったような気がする。
(2017.9.30)