梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・5

《四 言語に対する主体的立場と観察的立場》
・言語に対して、我々は二の立場の存在を識別することができると思う。
一 主体的立場・・・理解、表現、鑑賞、価値判断
二 観察的立場・・・観察、分析、記述 
・言語は主体を離れては、絶対に存在することのできぬものである。自己の言語を対象として研究する場合は、自己は言語の主体であると同時に、また観察者である。他者の言語を観察する場合も、この言語は他者を主体とする表現行為であって、それが主体を離れた存在であるとは認めることができない。言語はどこまでも、主体の精神生理的過程現象としてのみ行為せられ、また観察の対象となるのである。
・主体的立場と観察的立場の識別が、言語の実践においても、言語の研究においても、極めて重要である所以について述べようと思う。
・近代言語学の勃興時代において、過去における文語の偏重が非難され、口語あるいは方言こそ真の生きた言語であることが主張されたが、それは文字によってのみ知ることができる文語よりも、実際に言語現象のあらゆる部門、特に音声および意味について的確に観察しうる口語、方言の方が、観察の対象として有利であり、価値ありとする観察的立場においていわれるべきことである。この価値の観念を、直ちに主体的立場に移すならば、それは非常な誤りである。主体的な意識においては、それが観察に有利であると否とにかかわらず、文語は口語や方言よりも高い価値において認められていることは明らかなことである。
・観察者と主体との二の立場は厳然と区別されねばならないにもかかわらず、観察に価値ある言語が、実践においてもまた価値があるという判断が見られることは注意されなければならない。標準語に対して方言よりも高い価値を認めようとするのは主体的立場であり、方言研究の必要が力説されるのは、方言の認識が言語の観察に方法論的に見て重要であるとする観察的立場であって、この立場は本来別のものであるがゆえに、標準語普及ということと、方言研究ということは、全然別個の問題として矛盾すべきものでないことが自ら明らかになってくるわけである。
・観察的立場においては、文語と口語とは、これを言語の史的変遷の中に位置づけて考えるであろうが、主体的立場においては、むしろ表現価値の上からこれを区別している。例えば「花を折るべからず」と「花を折ってはいけません」との二の表現は、けして古代語的表現、現代語的表現というような区別によって実践されているのではないことは明らかである。いわゆる雅語俗語の区別のごときも、観察的立場においては認めることができなくても、主体的立場における主体的意識として、右のような価値意識が存在していることは否定できないのである。
・また、近来音声学上の問題の中心となっている「音韻」について見ても、同様なことが言い得る。言語学の領域に属するものは、音声でなく音韻であり、音声は生理的物理的現象であるが、音韻は純粋に心的なものであると一応は定義しても、元来音声は精神物理両方面を俟って始めて観察の対象となるのであるから、右の定義によっては、音声と音韻との区別を明らかにすることはできない。国語の「ン」はサンバ(三羽)、コンド(今度)、リンゴ(林檎)において、それぞれ[m][n][ng]に区別され、これを音声学的識別と称しているが、右は観察的立場においてのみ言い得ることであって、観察者自身は、国語の言語主体とはならず、もっぱら客観的に音声を眺め、これを観察し、あるいは機械にかけて分析する立場においてのみ言われることである。もしこれを主体的立場において、主体的な音声意識に即していうならば、国語の「ン」に三者の区別があるということは、意識されないことであるに違いない。国語の音声体系として「ン」が一個であるということは、「ン」の観察者における心理的印象に即してそういわれるのでもなく、また「ン」の個別相を抽象し、帰納してそういわれるものでもなく、実は言語の実践的主体的意識に即してそのように言われることである。
・このように、観察的立場と主体的立場とがその結論を異にし、言語に対するこの相容れぬ認識が成立する時、我々はいかなる態度をとったならばよいのであろうか。言語の実践においては「ン」は一個にして一様であるが、言語の観察においては[m][n][ng]の三者を区別しなければならないとするならば、実践と研究とは、永久に相容れぬ障壁に隔てられてしまわなければならぬことになる。ここに言語研究全体にわたる重要な問題が存するのである。
・この問題を解決するためにまず観察的立場がいかなるものであるかを吟味してみなければならない。もし、言語を、(我と他者との主体的行為を離れて)外在する実体的なものと考え、これを使用する時においてのみ主体との関係が考えられるとするならば、言語の観察において主体的意識というものを考える余地は全然存在しない。しかし、言語は、個人的な主体的行為を離れて存在しうるものでなく、個人が行為することによってのみ生成される言語より外には考えられない。(すでに述べたように)思想内容を音声に表現し、文字に記載する主体的な行為に外ならないのである。ソシュールは、右のごとき概念と聴覚映像(音声表象)との連合過程、およびそれに随伴する生理的物理的過程を言語活動(ランガージュ)と考えた(「言語学原論」・小林英夫訳)。言語におけるすべてを、ソシュールはまず循行過程として理解したのである。この循行過程に存する概念と聴覚映像との連合過程から、直ちに概念と聴覚映像との「連合したもの」が成立し、存在するごとく考えたのは甚だしい誤解であるといわなければならない。我々が考えられるのは、連合によって成立したものではなくて、主体的な連合作用のみである。もし言語に社会的な面を求めるならば、個人個人に存する循行過程あるいは連合作用そのものの中に求めねばならない。循行過程は社会生活によって制約され、同一社会においては共通性を帯びてくる。言語が理解の媒材となりうるのはそのためであって、概念と聴覚映像との連合したものが、各人の脳中に貯蔵されているためではない。
・個々の主体的行為として成立する言語を対象として、そこから共通性を抽象し、一般的な原理を見出して言語の概念を規定するのが言語研究の真義でなければならない。
・観察的立場における対象としての言語は、主体的立場において実践され行為された言語に他ならないのである。それは、文学研究において、創作主体を考え、作品を創作主体の創作活動として考えることと相通ずるのである。文学的研究という観察的立場は、創作主体の創作活動という主体的な活動を考慮することによって、はじめて研究の完璧を期することができるのである。
・ここに言語研究の主体といったのは、必ずしも甲とか乙とかの特定個人を意味するばかりでなく、主体一般を意味するものである。ゆえに日本語を考える場合には、日本語の主体一般を考えることとなるのである。
*観察的立場と主体的立場とは、本来言語に対する別個の立場であるが、その間には次のような関係が見出されるのである。


『観察的立場は、つねに主体的立場を前提とすることによってのみ可能とされる』


・以上のことは、言語観察の実際の歴史がこれを証明している。それは言語研究に先行する解釈作業である。解釈作業というのは、単に甲の言語を乙が受容したことを意味することでもなく、文字に表されたものに訓を付し意味を当てることでもなく、厳密にいえば、乙が甲の言語を追体験することである。今、甲が「花」と言った時、乙がこれを「桃の花」の意味に理解しようと「桜の花」の意味に理解しようと、それは一の言語の受容であり理解であるには違いないが、これを解釈作業のによる理解ということはできない。解釈作業とは、甲の意味した「花」が何であるかを逆推して、甲の体験をそのままに乙が体験しようとすることでなければならない。今乙が、甲の言語を観察的立場に立つ対象とし、これを観察するためには、観察者自らを主体甲の立場においてこれを解釈し、主体的に追体験をなし、さらにこの自らの経験を観察的立場において観察するという段階を踏まなければならない。解釈が言語の対象的把握に必要であるということは、すなわち、主体的実践ということが観察に必要であることを意味するのである。この場合、乙は観察者である前に、まず主体的な立場に立つことが必要なのである。
・本居宣長が、源氏物語を解釈するには、物語中に用いられた語の意味を以てすべきであることを主張したのは(「玉小櫛巻五」)、前代の主体的立場を無視した観察的立場に対して、主体的立場を力説したことに他ならない。
・我々は今言語研究において、主体的立場を前提とすることの必要であることを、方法論的に確認しなければならないと思うのである。


・次に言語学上の二三の問題について、右の立場の識別の重要であることをさらに具体化してみようと思う・
・言語研究の最初の出発点は、具体的な言語の分析であり、さらに進んで、分析されたものの総合によって、言語とはいかなる事実であるかを明らかにすることである。
・神保格氏は、このようにして対象的に把握されたものを言語観念と名づけ(「言語学概論」)、言語観念を分析して、音声、文字、意義に分け、言語観念はこれら三者の連合から成立していると説かれた。この分析が如何にして成立したかを考えてみるのに、まず「サクラノハナガサキマシタ」という一連の音声を聞いたとき、「桜の花が云々」の意義を連合して思い出す。この立場は、(私に言わしめれば)聴き手における言語の主体的立場である。次に、神保氏は、このような事実から、意味のある音声、意味を持った音声を把握しようとする。氏は、主体的立場において経験された具体的言語を、観察的立場において把握しようとする時、主体的な立場においてなされた、意義を音声に表現しようとする立場あるいは音声から意義を思い出すという理解の立場を一切無視して、主体の存在を全く捨象した意義と音声との結合ということを以て言語と考えようとするのである。ここに、氏の言語観念なる概念が現れてくるのである。主体的活動を捨象した言語観念は、全く物的構成体と同様に考えられている。同時に主体的な言語は、このような言語観念を運用する働きとして考えられるようになった。氏のいわゆる言語活動がそれである。(「言語学概論」)氏の言語観念と言語活動の考えは、ソシュール学における「言語」(ラング)と「言語活動」(ランガージュ)という考えに酷似するが、そこには主体的立場を除外した観察的立場が存在していることに注意しなければならない。これらについては、総論第六項において、ソシュール学の理論を批判することによって、一層その立場が明らかにされると思う。
 次に、言語の音声研究(音韻論)の対象は、観察者の感覚に直接訴える音声表象(あるいは物理的生理的特性ではなく)、この言語の主体的意識における音声を対象としなければならない。その方法は、すでに述べたように、観察者が自らこの言語の主体としての経験を経なければならないのである。言語の音声を他の音声と区別できる根拠は、その音声的特質にあるのではなく、それが主体的であるか否かにあるのであって、主体的立場を無視した音声研究は、そのこと自身がすでに矛盾を孕んでいるのである。もちろん、音声の根拠として、その生理的物理的条件を考察することは必要であり、音声の種々の現象を研究するためには欠くことはできないが、その根底に主体的意識がこれを制約していることを忘れてはならない。したがって、特に音声論と音韻論を研究対象の相違から対立させる必要はない。従来の音声研究にはこの立場の混同があった。音韻は音の一族であるとする考え方や、抽象音声であるとする見方は、主体的意識を除外した観察的見解であり、音の理念とする考え方や、言語音を区別する示差的性質のものとする見方は、むしろ主体的立場であるといえるだろう。これらの所説には、立場の相違についての弁別が存在していなかった。真の観察的立場は、主体的立場を前提としなければならにことを明らかにすることによって、音韻に関する見解の是非を決定することができると思う。
 主体的立場と観察的立場との関係は、言語における価値の問題にも適用できる。ソシュールは言語について価値の問題を論じているが(「言語学言論」・小林英夫訳)、それはもっぱら語の対立関係についていわれている。例えば、英語の羊を意味するsheepは、仏語のmoutonとは価値が相違するといわれ、「恐がる」は「びくつく」と価値が異なるといわれるのは、語と語の対立関係をいったものだが、その立場は、全然主体的立場を含まぬ観察的立場において各語を比較計量したものである。しかし、価値というものが、主体の目的意識を離れて、それとは無関係に存在しうるかということは甚だ疑問であり、単に個体と個体との間に対立関係が存在するということによっては、価値は発生し得ない。観察的立場の対象としての各語は、主体的立場を除外するならば、あたかも水晶と金剛石とが自然物として対立しているようなもので、個体としての認識はそれによって成立しても、そこには価値関係は成立し得ない。価値関係が生ずるのは、これを利用しようとする主体的立場でなければならない。ソシュール学の対象とする言語(ラング)は心的なものといわれているが、それは主体的作用の外に置かれているものであり、言語主体がこれを運用する時においてのみ主体との関係が生ずるのであるから、これについて価値をいうことが既に矛盾しているのである。ソシュール学における価値の概念は、経済学でいう交換価値の概念の言語への適用と考えられる。例えば、10円が何ドルと交換され、米一石が何円に相当するかによって価値が決定されると同様に考えて語と語の対立関係を見ようとするのである。なるほど、円とドル、米と円との対立関係があると同時に、価値が客観的に存在しているように考えられるかも知れない。事実それゆえにこの考え方が言語に適用されたのであろうが、経済的交換価値においては、客観的な貨幣あるいは物質それ自体が価値を持っていると認めるべきでなく、これらの価値を決定すべき経済的主体を考えずに説明することができないのである。同様に、言語の場合にも、価値はもっぱら言語の主体的意識として存在すべきものであり、観察的立場おいて存在すべきものではない。観察的立場における価値は、ただ対象が観察主体にとって方法上便宜であるか否か、有効であるか否かによって生ずるのみである。例えば、口語が文語よりも価値があるとするがごときがこれである。ソシュール学における価値の概念が、主体的立場、観察的立場のいずれに属するかは不明だが、単に物の対立関係という点だけを見て、これを言語に適用して価値を論じたことは皮相の見であることを免れない。言語において価値をいう場合は、ある言語行為が、表現目的を満足させるか否かの主体的立場においていわれるべきことなのである。例えば、敬語の選択、標準語の使用、言語の美的表現等において主体的価値意識を認めうると同時に、そこに言語の実践上の規範があるのである。
 主体的立場と観察的立場との関係は、単語において、単純語と複合語との別を規定する場合にも適用できる。観察的立場において、もし主体的立場を除外したならば、およそ客観的に分析しうる語は皆複合語とならなければならない。単語(単純語)を語の分解の極度に達したものと考えるのは、観察的立場である。このような分解が、我々の単語に対する常識的語感を満足させることができないので、従来きわめて煩雑な説明が単語について試みられたのは、主体的立場を無視したためだと思う。山田孝雄博士は、語について、談話文章を構成する第一次要素(「日本文法学概論」)、また分析的見地に対して総合的見地というような考えで説明されようとしたが、これらの考えそれ自身いずれも観察的立場に属するものなので、満足な結論を導くことができなかった。元来単語において単純語と複合語とを決定するものは、主体的立場に属するものであるにもかかわらず、一方に客観的に語を分解しつつ、他方主体的意識における単語の概念を説明しようとするのだから、矛盾が生ずるのは当然である。例えば「なべ」《魚(な)と瓶(ヘ)の結合》「をけ」《麻(を)と筍(け)の結合》「ひのき」(火の木)のごときが、複合語ではなく単純語として認められる根拠は、観察的立場ではなく、現在の主体的意識に基づいているのである。「うさぎうま」が単純語ではなく、複合語であるとされるのは、主体的意識においてこれを二語の合成した単語であると考えるからである。観察的立場においては右の一方を単純語とし、他方を複合語とする根拠は見出し得ないはずである。
 古代語においては、古代人の主体的意識に還元することによってのみ、単純語と複合語の認定をすることができる。「なべ」「をけ」は、古代語としては複合語であったものが、現代語としては単純語となったということになる。同様に「ひのき」は古くは複合語であったものが今日においては単純語となったので、「まつのき」が今日においても複合語であるのと相違する。もし主体的意識を除外して、単に観察的立場にのみ立つならば、右のような区別は不可能となるのである。
 このように見てくると、文における単位を意味する単語は、主体的意識に基づくものであると同時に、文の中の単位的要素として意識されたものだが、複合語は、単位語としての単語の内部構成の単複の意識に基づくものである。ゆえに複合語に対立するものは単純語であって、複合語と単純語とを一括して単位語としての単語の意識が成立するのである。従来の単語論は、もっぱら観察的立場による分解によって単位語を定義しようとしたために、単位語と単語と複合語との区別が困難になり、同時に複合語を認める立場をも失ってしまったのである。ちなみに、単純語と複合語との主体的認識は、同じ時代、同じ社会においては、ほぼ共通的なものであるということは、言語の社会性の上からいい得ることである。
 言語に対する主体的立場と観察的立場との関係は、また言語の美学的考察についても適用できる。言語美学は、主体による言語の美的表現形式と、その根底をなす主体の美的感情とを対象とするものであるから、一語の表現の上にも、文の構成の上にも、音の排列の上にも現れる。言語の美的表現は、全く主体的立場に存するものであるから、観察的立場は、よくこれらの主体的立場を追体験することによって、言語美学の体系を立てることができるのである。それらについては、第六章国語美論の項で詳述する。


【感想】
 著者は、一貫して言語に対する主体的立場を主張している。言語は人間という主体を離れて、外在的・客観的に存在しているわけではない。音声や文字を言語であると錯覚すると、観察的立場をとるようになり、言語の本質を見誤るという批判はユニークであり、しかも画期的である。著者は、観察的立場の誤りを列挙しているが、中でも「ン」という音韻には[m][n][ng]の三種類あるという分析をしてみたところで、何の意味も無いという指摘(人が発する「ン」という音韻の他、すべての音韻は千差万別であり一つとして同じものはない。いわゆる「声紋」である)や、単語(単純語)を語の分解の極度に達したものと考えたとしても、「なべ」「おけ」「ひのき」などは、古代においては複合語であった、つまり古代人の認識では魚の瓶が「なべ」であり、麻の筍が「おけ」、火の木が「ひのき」だったが、現代人の認識では「なべ」は鍋、「おけ」は桶、「ひのき」は檜ということになる。つまり同じ言語(単語)でも、人間の認識によって規制されているのだ、という指摘はたいそう興味深かった。
 著者がこの項で述べたかったことは、言語に対する『観察的立場は、つねに主体的立場を前提とすることによってのみ可能とされる』という一文に要約されると、私は思う。当時の言語学界において「主体的立場」を主張するのは著者をおいて誰一人としていなかったために、様々な指摘・批判をしなければならなかった事情がよくわかる。ここまで、著者は、自らが「主体的」に言語を探究するという立場を明確にしているが、その言語論についてはまだ言及していない。今後の展開を楽しみに読み進めたい。
(2017.9.5)