梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・6

《五 言語の存在条件としての主体、場面及び素材》
 言語を音声と概念との結合であるとする考え方は、すでに対象それ自身に対する抽象が行われている。我々は、そのように抽象された言語の分析をする前に、具体的な言語経験がどのような条件の下に存在するかを観察し、そこから言語の本質的領域を決定していくという手続きを忘れてはならない。
 私は一つの例を挙げて説明しようと思う。一つの家屋を対象として観察しようとする時、玄関とか、客間とか、居間とかに分析してその構造を明らかにしようとするのは、言語を音声と概念に分けて構造を明らかにしようとする方法に類する。この観察の方法は、既にできあがった家屋を、それだけに限定して観察する方法であって、自然科学的対象としての物質についてならば、その物の本質を明らかにすることができるだろう。しかし、家屋を家屋としての意味において観察するためには、それだけでは不十分である。家屋は何よりもそれが製作されたものとして、その存在条件を考慮に入れなければならない。それが家屋の本質そのものを規定するからである。第一に、家屋が成立するためには、地盤が必要である。地盤は家屋の構成要素とはいえないが、いかなる家屋も地盤がなければ存在することができない。地盤によって家屋自体の構造も制約される。地盤が家屋にとって一つの存在条件であるということができる。第二に、家屋はこれを作るものがなくては存在できない。作る者には設計者もあり、資本主もあり、大工もあるが、それらによっても家屋の構造は規定されてくる。第三に、家屋を利用する居住者も存在条件として考えることができる。居住者の目的に応じて、家屋は種々な形態をとる。住宅向き、事務所向き、商店向きのように・・・。これらのものは、皆家屋にとっては、その構成要素とはいいがたいものであるにもかかわらず、家屋はこれらのものによってはじめて家屋として成立するということができる。これらのものを今家屋の存在条件と名づけるならば、ある事物を観察するのに、その構成要素を明らかにすると同時に、その存在条件を考慮するということは重要なことである。
 私は言語の存在条件として、一主体(話し手)、二場面(聞き手及びその他を含めて)、三素材の三者を挙げることができると思う。言語は、誰(主体)かが、誰(場面)かに、何物(素材)について語ることによって成立するものであることを意味する。
 言語におけるこの三つの存在条件は、三角形の頂点として象徴できる。三者は相互に固く結ばれて、この中に言語表現を成立させる。このような支柱がなくては言語は成立できないと同時に、この三者の相互関係が言語自体を種々に変形させる力を持っているのである。
 第一、主体。主体は、言語表現行為の行為者(話し手)である。主体はどのような方法で言語を表現するか。(文法上の主格は、言語に表現される素材間の関係の論理的規定に基づくものであって、言語の行為者である主体とは全く別物である)例えば、「猫が鼠を食う」という表現において、「猫」「鼠」「食う」という素材的事実相互において、「猫」が「鼠」「食う」に対して主体となるようなものである。こういう場合の主体は、素材間の関係に過ぎないのであって、「猫が鼠を食う」という言語的表現そのものの主体は別でなければならない。言語の主体は、語る主体であって、「鼠を食う」という事実の主体であってはならないのである。次に、文法上の第一人称が主体と考えられることがある。「私は読んだ」という表現において、この表現をしたものは「私」であるから、この第一人称は、この言語の主体を表しているように考えられる。しかし、よく考えてみると、「私」というのは、主体そのものではなく、主体の客体化され、素材化されたものであって、主体自らの表現ではない。客体化され、素材化されたものは、もはや主体の外に置かれたものであるから、実質的に見て、「私」は前例の「猫」と同じであり、異なる点は「私」は主体の客体化されたものであり、「猫」は第三者の客体化されたものであるということであって、そこから第一人称、第三人称の区別が生ずる。したがって「私」は主格とはいえても、この言語の主体とはいえないのである。このように、第一人称は、第二、第三人称と共に全く素材に関するものである。この考え方は極めて重要であって、言語の主体は、絶対に表現の素材とは、同列同格には自己を言語において表現しないものである。例えば、画家が自画像を描く場合、描かれた自己の像は、描く主体そのものではなく、主体の客体化、素材化されたもので、その時の主体は、自画像を描く画家自身であるということになるのである。言語の場合においても同様で、「私が読んだ」という時の「私」は、主体そのものではなく主体の客体化されたものであり、「私が読んだ」という表現をするものが主体となるのである
 言語の存在条件として主体の概念を導入することは、本論の展開の重要な基礎となるものである。
 第二、場面。場面とは、場所の概念と相通ずるが、単に空間的位置的なものだけでなく、場所を満たす事物情景に加えて、事物情景に志向する主体の態度、気分、感情を含むものである。
【A・主体→→→B・客体的世界に対する志向作用→→→CやD・ 事物や情景】
◎CDは事物情景であって。主体Aに対しては全く客観的世界に属する。Bは主体Aがこの客観的世界に志向作用を表し、B及びCDの融合したものが、主体Aの場面である。 ゆえに場面は、純客観的世界(事物情景)でもなく、純主体的な志向作用でもなく、主客の融合した世界である。こうして我々は、つねに何らかの場面において生きているということができるのである。例えば、往来の激しい道路を歩いている時は、これらの客観的世界と、それに対する緊張と興奮との融合した世界(このような場面)の中で、我々は歩行しているのである。我々の言語的表現行為は、つねに何らかの場面において行為されるものと考えなくてはならない。
 最も具体的な場面は聞き手である。我々は聞き手に対して、つねに何らかの主体的感情(気安い、煙たい、軽蔑など)をもって相対し、それらの場面において言語を行為する(語る)。場面は単に聞き手だけその内容が限定されるだけでなく、聞き手も含めて、その周囲の一切の主体の志向的対象となるものを含む。例えば、厳粛な席上で一人の友人と相対する時と、くつろいだ席上で相対する時とは、聞き手は同じでも、言語的場面としては著しく相違していると考えなければならない。
 場面は必ず主体の存在を俟ってはじめて成立するものであって、主体を離れて言語の場面を考えることができないと同時に、場面が言語にとって不可欠のものであることは明らかである。場面の存在ということは、いわば我々が生きているということに外ならないのである。場面の概念が、言語の考察に必要であるということは、場面がつねに我々の行為と緊密な機能的関係あるいは函数的関係にあるためである。場面が言語的表現を制約すると同時に、言語的表現もまた場面を制約して、その間に切り離すことのできない関係があるからである。 
 一般に、場面が表現を制約することは、次のような事実によって知ることができる。画家の描こうとする一枚の絵は、それが掲げられるべき場所(寺院の壁間、私宅の食堂)によって必然の制約を受ける。この時、あらかじめ予想される場所と画家との間に一の場面が成立し、この場面の制約の下に一枚の絵が描かれるのである。また逆に、食堂に掲げられた一枚の絵によって、陰気な食堂が華やかになるように、表現はまた場面をも変化させる機能的関係を持っている。場面と表現との関係は、例えば、軌道と車両との関係に等しい。軌道は車両の運行を規定し拘束するものであるが、同時に車両の構造性能によって軌道自身も制約される、両々相俟って車両の運行が完成されるのである。
 言語はつねにその場面との調和関係において表現される。言語は単なる主体の内部的なものの発動ではなく、これを制約する場面で表現されることによって完成する。換言すれば、言語は場面に向かって自己を押し出すこと、あたかも鋳型に溶鉄を流し込むようなものである。その最も著しい例は敬語である。「暑いね」「暑うございますね」の二の表現は、表現の素材としてはなんらの増減なく、ただ主体の場面の相違に基づく変容であると考えられる。
 場面は、具体的な言語経験においては必ず存在すべきものであるが、場面は言語の上にどのように現れてくるか。簡単に考えれば、聞き手としての第二人称が場面を表していると考えるかも知れない、しかし、これも主体の場合と同様に、場面の客体化されたものであり、素材化されたものであって、場面それ自らではない。場面はいかなる場合においても、素材とは同列に言語にそれ自らを表現しないのである。
 主体に対して聞き手は一つの客体であるが、それは場面的客体に過ぎない。言語行為者としての主体的意識において、客体としての意味に相違があることを知ることは、場面の意味を理解する上において極めて重要である。
 場面の概念の導入は、主体の場合と同様に、本論の基礎をなすものである。
*私の意味する場面(聞き手その他を含めて)が、従来言語学の聞き手とどう違うか。
一般に、聞き手は言語の受容者として言語変化の契機を与えると考えられているが、受容者としての聞き手も、話し手と同様、言語の主体に外ならない。言語を聞いてある事物を理解する時、そこに言語の存在を経験することができるのだから、この場合聞き手が主体となるのである。私の意味する場面は、受容者としての聞き手ではなく、言語的主体である話し手に対立するものとしての聞き手である。主体の志向対象となる聞き手であって、客観的に見られた聞き手ではないのである。もし、聞き手における言語経験を対象として考察する場合には、聞き手は聞き手として存在しているのではなく、言語経験の主体と変ずるのであり、話し手は、聞き手の受容の対象として、かえって場面的意味を持った話し手と変ずるのである。例えば、私が年長者の話を聞いている時、あるいは目下の者の話を聞いている時、話し手である年長者と私、目下の者と私との間に場面的関係が成立し、このような場面において、私が言語を聞くという主体的経験が成立するのである。これらの場面的関係が言語経験の成立過程に及ぼす影響もまた話し手における場合と同様であることは、同じ言語も相手に従って、我々の理解が異なってくることによって知ることができる。
 場面と類似したものに「現場」の概念がある。小林英夫氏(はその著「言語学通論」で現場について説明されているが)によれば、現場はバイイのsituationnの意味である。それは物を言う人の場所を意味する。現場が明らかにされれば、語の意味は非常に明瞭になってくる。「帽子を取って下さい」という言語も、現場が明らかでなければ、どんな帽子であるか知ることができない。国語の「取ってくれ」「おとり下さいませ」の相違は、話し手が男であるか女であるかをよく示している。これに反してフランス語のPassez-le-moi,sil vous pkait!は男女いずれであるかを明らかに示さない。前者は現場喚起性に富んでいるが、後者にはそれがない。現場は文章において文脈となる。以上が、現場の思想の概略であるが、それは主として素材の表現性に関するものであって、私のいう場面とは異なるものである。口語において現場がその表現を助けるということも素材に関することである。「犬」といえば、今眼前にいる犬か、話題になっている犬かは現場においてはきわめて明瞭である。私の場面は、そういう素材に関するものではない。
 現場について注意されることは、「言語」(ラング)が現場において規定されるということである。「ホラ、帽子」といえば、「帽子」は特定の個物に限定されるというのである。小林氏はこれを現示と名づける。現示は、現場にあるか、言語記号によるしかしなければ明らかにすることはできない。従って、現場を離れた聞き手に語る場合には、話し手は「言語」(ラング)を限定する技巧を考えなければならないのである。話し手においては、すべての「言語」(ラング)は、現場によって限定されるにもかかわらず、聞き手に対してさらにこれを限定する技巧を考えなければならないということは、どんなことを意味するのか。現場における現示ということは、主体的意識としていいうることであるのか。それとも観察的立場でいいうることであるのか。著者の立場は、語と物とを比較対照した結果、現場における語が物に規定されているという見解がうまれてきたように思われるのである。例えば、「机」という語によって表されている物それ自体を、主体的意識を離れて、客観的に観察して、この語が、特定の机に限定されていると考えるのである。しかし、主体的立場においては、同一概念に属する甲乙丙等の個物は、斉しく同一物であるという意識の下に、同一の語で表現されているのである。「汽車が通る」の「汽車」が何時何分発の列車に限定されていると見るのは、第三者の観察的立場からいえることであるが、主体的意識においては、ただ斉しく「汽車」としか意識されてない。ゆえに特にこれを限定する場合においてのみ、何時何分発の汽車ということが必要になってくるのである。以上、現場に関連した問題は、言語本質観に関して重要な結論をもたらすものなので総論第六項で詳述する。
 第三、素材。素材は言語によって理解される表象、概念、事物であり、構成主義的言語観においては、意義あるいは意味という名で、音声形式に対応する言語の構成要素と考えられているものである。言語を主体の表現行為であると見る立場においては、事物にしろ、概念にしろ、表象にしろ、それらはすべて、主体によって、「就いて語られる」素材であって、言語を構成する内部的な要素と見ることはできない。言語が成立するためには、それに就いて語られる素材が絶対に必要であり、語られる素材のない言語は無意味である。運ばれる貨物や乗客を前提としない鉄道のようなものである。したがって、素材もまた言語の存在条件である。それは言語過程説の必然の結論でもある。その理由を、列車を例にとって考えてみる。列車の構成要素は、機関車、客車、貨車等に分析することができる。しかし、列車が乗客を運ぶものであることを考える時、列車と乗客にはどのような関係が成り立つだろうか。乗客は列車の構成要素ではあり得ない。列車と乗客の関係は、列車の本質は、列車が乗客を運ぶ機能の上にあるのであって、乗客は言語における「就いて語られる」事物、表象、概念等の「素材」に相当する。列車が乗客を運ぶことによって列車たり得るように、言語は素材を表現する機能において成立するのである。主体や場面が言語の外にあると同じ意味で、素材もまた言語の外にあると考えなければならない。表象や概念が心的内容であるからといって、言語の内部的要素と見ることはできないのであって、言語主体から見ればやはりこれに対立した外のものと考えなくてはならない。列車が乗客に食事を供給し、座席や寝台を提供して乗客を運ぶと同様に、言語は、素材を運ぶ言語としての特殊の機能を持っている。言語は素材をそのまま運ぶことはできない。これをいったん、何らかの形に変形しなければならない。
 素材が言語の外にあると同様なことは、絵画でもいえる。描かれる景色自体、静物自体は絵画の構成的要素ではなく、絵画の本質は、このような素材を描き出すことになくてはならない。文学でも同様に、文学の表現する思想とか事件とかは、文学にとっては素材であって要素とはいえない。文学作品を通して我々が単にその思想や事件を理解したに止まるならば、それは作品そのものを把握し鑑賞したことにはなり得ない。文学作品の把握や鑑賞は、作者が素材をいかに取り扱い、いかに表現したか、すなわち作者の素材に対する態度を観察することによって、文学の対象的把握ということが成立するのである。
 言語はあたかも思想を導く水道管のようなものであって、形式だけがあって全く無内容なものと考えられるであろう。しかし、そこにこそ言語過程説の成立の根拠があるのであり、言語の本質もこのような形式自体にあると考えなくてはならない。
 具体的な一個の犬を指して「犬が来た」という場合に指された一個の犬と、単に抽象的に「犬は哺乳動物である」といった場合に指された概念「犬」について、前者は言語の構成要素ではないが、後者は構成要素であるということはできない。具体的な個物であっても、心理的な概念であっても、言語主体によって、表現の素材として把握された以上、主体に対立したものと考えなくてはならない。だとすれば、言語の要素としていったい何が残るのだろうか。
 言語の本質的要素は、素材を伝達できるように加工変形させる主体的な機能の上になければならない。そこで私は、言語における本質的なものは、概念ではなく、主体の《概念作用》にあると考えるのである。
 我々が言語によってある概念内容を理解するので、ただちに概念内容を言語の構成要素と考えやすいが、それは言語によってその素材を理解したことにはなるが、言語そのものを対象的に把握したことにはならない。言語による素材の理解は、言語の主体的立場であって、観察的立場は、このような理解の立場をさらに再び観察する立場でなければならない。この観察的立場は、言語によって理解され、または表現された素材を観察する立場ではなく、理解または表現する主体的機能を観察する立場でなければならない。このようにして、言語の本質は、概念作用のような言語主体に存するということができる。素材は機能の対象であって、概念作用によって素材が概念化され、この両者は不可分離のものであるが、一方は主体的な作用であり、他は作用の対象であって、これを分離して考察する必要がある。言語構成観は、このように分離された概念内容の方を、主体的機能を除外して、言語の構成要素と見るのだが、私は、主体的な機能をこそ言語の本質的要素と考え、これら機能によって概念され、表象された概念及び表象を素材として、言語の外に置こうとするのである。
 この素材観の結論は、意味の問題を考える上に極めて重要なことであるが、それは各論に譲り、ここではもっぱら言語の本質を、素材ではなく、素材に対する主体的機能である概念作用あるいは意味作用に置こうとする立場をさらに具体的に説明しようと思う。
 例えば、敬語である。ある語を敬語とし、他を敬語でないとする根拠は何だろうか。言語を音声と概念との結合であるとする言語構成観に従うならば「行く」と「参る」とを敬語の概念によって区別することはできない。この二の語は、その構成において全く同一だからである。これを敬語、非敬語に区別できるのは、これらの語の主体の、素材である事実に対する把握の仕方に相違があるからである。同一素材に対する主体的機能の上に区別が存するからである。敬語の「敬」は、主体的意識と、その表現に関していわれるのであって、素材に対する主体的立場と主体的機能を無視して敬語は成立し得ないのである。
 例えば、単純語と複合語の区別も、素材自体に即して考えるならば、これを明らかにすることはできない。「三角形」と「三辺によって囲まれた図形」とは、素材としては同一物であって、素材の単複で語の単複を決定しようとするならば、両者は共に単純なる単語でなければならないはずである。単純語と複合語との相違は、上のような素材の性質にあるのではなく、素材に対する主体の把握の仕方にあるのである。


【感想】
 本項で、いよいよ著者の「言語過程説」が登場する。その内容を私なりに要約すると、以下のようになる。
 言語は、「音声」「文字」「概念」ではない。従来の言語学は、言語をあたかも「自然物」を観察するような方法で解析してきたが、それだけでは不十分である。言語の本質を見極めるためには、言語を成立させるための存在条件を明らかにしなければならない。それは、一主体、二場面、三素材である。《言語は、誰(主体)かが、誰(場面)かに、何物(素材)について語ることによって成立する》ものである。主体とは話し手であり、場面とは(その場の)聞き手および事物、情景である。留意すべきは、場面には主体の志向作用(聞き手及び事物、情景に対する主体の意識、感情)も含まれており、それと客観的な事物、情景が融合されたものが場面である。素材は、「~に就いて語られる」事物、概念、表象であり、平たくいえば「話題(題材)」である。その事物、概念、表象は「そのまま」では相手に伝わらない。そこで主体は素材を場面(聞き手)に伝達するために、加工変形する必要がある。その加工変形することを「概念作用」という。 
 著者は「言語の本質的要素は、素材を伝達できるように加工変形させる主体的な機能の上になければならない。そこで私は、言語における本質的なものは、概念ではなく、主体の《概念作用》にあると考えるのである」と述べている。また「言語の本質は、概念作用のような言語主体に存するということができる。素材は機能の対象であって、概念作用によって素材が概念化され、この両者は不可分離のものであるが、一方は主体的な作用であり、他は作用の対象であって、これを分離して考察する必要がある。言語構成観は、このように分離された概念内容の方を、主体的機能を除外して、言語の構成要素と見るのだが、私は、主体的な機能をこそ言語の本質的要素と考え、これら機能によって概念され、表象された概念及び表象を素材として、言語の外に置こうとするのである」と、従来の言語構成観を批判している。
 以上は「言語過程説」の土台となる考え方である。
 また、著者は、〈場面と類似したものに「現場」の概念がある〉といい「現場」という概念を紹介しているが、その内容は難解で私には理解することができなかった。
(2017.9.6)