梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・4

《三 対象の把握と解釈作業》
・言語研究の対象である言語は、これを研究しようとする観察者の外に存在するものでなくして、観察者自身の心的経験として存在するものであることは既に述べた。
・最も客体的存在と考えられやすい言語は、最も主体的なる(心的なる)存在として考えなければならないこととなる。この主体的な言語を、主体的なままに対象として把握する方法がすなわち解釈作業である。
・今、甲が「犬が走る」と言ったとする。この言語は、ただ甲がそう言ったというだけでは、甲の表現行為であることに終わって、我々の観察の対象とはなり得ない。観察の対象にとなるためには、我々が甲の表現を文字を通して読むか、耳で音声を聞くことが必要である。しかしながら、このようにして甲の言語を理解したとしても、甲の言語を具体的に経験したことには(必ずしも)ならない。甲の音声を聞いて得る我々の言語経験は、我々観察者自身の言語的経験であったにしても、甲の経験のままではない。甲の「犬」は小犬であるのに、理解する方では、土佐犬のようなものを理解するかもしれない。
・そこで甲の言語を対象として把握するためにどうすればよいかというと、我々が甲の言語と同じ経験を我々自身が繰り返すことによって始めて可能になるのである。甲の言語を再経験し追体験する必要があるのである。甲の意味する犬がいかなる犬を意味するかを穿鑿する必要がある。このようにして理解されたものは、我々の恣意を離れたものであって、このような手続きを踏むことは、とりもなおさず甲の言語の解釈作業に他ならないのである。このようにして体験された言語は、甲の言語ではあるが、同時に外在的な存在でなく、甲の言語でありながら、しかも、観察者の心的経験として成立したものに外ならない。すなわち甲の言語を我々自身の心的経験において対象としているのである。
・解釈作業は言語研究の最初の重要な手段である。
・言語が解釈作業によってのみ対象となり得るものであることは、古典研究の解釈作業がこれを示している。古典研究における解釈は、古典の内容を理解する手段として必要であるばかりでなく、古典言語の研究の前提作業ででもある。それは古代語を古代人の主体的活動として再現することである。古来古典解釈において行われる訓点の施行とは、単に文字面を読むことではなく、古代人の文字的記載を古代人の音声にまで還元することである。例えば、「波奈」を「ハナ」、「花」を「ハナ」と訓ずることは、古代人が「ハナ」という音声を「波奈」あるいは「花」と記載した過程を逆推することであって、この二の記載法から帰納される表音的用字法あるいは表意的用字法というものは、古代人の記載的技術に他ならないのである。同様にして釈義は、古代人の意味的把握を追体験することであって、そのいずれの場合にも、言語の表現主体に還元していくことが必要とされるのである。このようにして古代人の主体的活動である言語表現の如実なる把握が可能とされるのである。解釈は古代語の観察者における実践と再現を意味することとなり、言語研究は、この観察者の実践によって再現された言語経験に対する反省から出発しなければならないのである。明治以前の国語学が、古典の解釈と密接不離にあったことは、その対象把握と観察に堅実な足場を与えたことになるのであって、一部論者のいうように、国語学が古典解釈の方便として歪められたと見ることは当たらないことである。むしろそこには、主体的活動である言語をことさらに客体化して観察する危険から免れしめた点を注意しなければならないと思う。


【感想】
・著者はここでも、言語を「客体的存在」として見るのではなく、「主体的なままに対象として把握する方法がすなわち解釈作業である」と言い、その重要さを強調している。解釈作業とは「犬が走る」という言語表現を《見聞きして》、観察者が、その犬はどのような犬だろうか、と自らも《主体的に》穿鑿することである。この作業こそが、言語研究の出発点であることが、よくわかった。「犬が走る」という音声を聞いたり、その文字を読んだりする人がいて、その意味を理解(解釈)しようとする時、はじめて「言語」が《心的過程として》存在することになる。したがって、その音声、文字という「現象・実体」は、それ自体としては言語ではない。(2017.8.29)