梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・3

《二 言語研究の対象》
【要約】
・自然科学においては、その対象は個物として観察者の前に置かれて居って、その存在について疑う余地がない。ところが言語研究においては、その事情は全く異なって来る。観察者としての我々の耳に響いてくる音声は、ただそれだけ取り出してたのではこれを言語ということはできない。音声を聞いてある意味を思い浮かべた時、はじめて我々は言語の存在を経験することができるのである。一般に言語は「意味を持った音声」であるといわれている。しかしながら、それは「脊椎骨を持った動物」と同じような意味においては、我々はどこにも「意味を持った音声」というものを観察することができない。
・言語の具体的経験は、観察者である我々が、ある音声を聞いてある意味を思い浮かべた時、あるいはある思想を音声によって表現した時にのみ経験し得るのである。同様なことが文字についてもいい得る。紙面に書かれた文字は一の視覚的印象である。それだけについて見れば、それは石面の亀裂となんら異なるところがない。我々がそれを言語であると考えるのは、その文字によってある意味を理解するという働きの存在があるからである。文字によってある意味を理解したことから、文字が意味を持っていると考えるのは、主体的な作用を客体的に投影することであって、(比喩的にはそういう説明が許せるであろうが、)それは言語の具体的な経験をそのまま記述したことにはならない。
・最も具体的な言語経験は、「語ること」「聞くこと」「書くこと」「読むこと」において経験せられる事実であって、このような主体的活動を考えずして、我々は言語を経験することはできないのである。
・いかなる人によっても語られもせず、読まれもせずして言語が存在していると考えることは単に抽象的にしかいうことができない。「我」の主体的活動をよそにして、言語の存在を考えることはできないのである。自然はこれを創造する主体を離れてもその存在を考えることが可能であるが、言語はいついかなる場合においても、これを産出する主体を考えずしては、これを考えることはできない。
◎言語は「語ったり」「読んだり」する活動それ自体であるということができる。具体的な言語経験は、音声によって意味を思い浮かべた時に成立し、文字によって思想を理解した即座に成立するのであるから、言語は実にこのような主体的な活動自体であり、言語研究の如実にして具体的な対象は実にこの主体的活動自体であるといってよいのである。言語が人間行為の一形式であり、表現の一形式であるといわれる根拠はここにあるのである。
・言語を心的過程と見る言語本質観はこのようにして生まれるのである。
・もし「語ったり」「読んだり」する主体的活動の中に、語られるものとしての言語を見たり、読まれるものとしての言語を考えたりするならば、その時すでに言語は具体的にして如実なる観察から遠ざかってしまうのである。
・「語る」については、「語られるもの」が存在しなければならないと考え、「語る」活動の材料となるものとして言語を考えることは、具体的経験を出発点としようとする私においては承認することができない。それは素朴な実在論に過ぎないのである。


・辞書は語彙の登録であって、主体的活動を離れた言語の記載を認め得るようであるが、辞書に登録された語彙は、具体的な語の抽象によって成立したものであって、あたかも博物学の書に載せられた桜の花の挿画のようなものであって、具体的個物の見本に過ぎないのである。辞書は具体的言語に対する科学的操作の結果できあがったものであって、それ自身具体的な言語ではないのである。
◎厳密にいえば、辞書は語を登録したものではなく、言語的表現行為、あるいは言語的理解行為を成立せしめる媒介となるものに過ぎない。例えば辞書に「あなづらはし」と標出されていても、それ自身は、語とはいい得ないもであって、単なる文字であり、厳密にいえば線の集合に過ぎないのである。


・また、古代言語が現代人の理解の外にあるからとて、主体的活動を離れた客体的存在と考えることはできないのであって、古代言語が言語といわれる所以は、それがやはり古代人の主体的活動と考えられるからである。古代言語の記述は、これを古代人の主体的行為に還元することによってのみ、我々はこれを具体的な言語として把握することができるのである。古代人の主体的活動に還元するということは、要するに、言語の観察者が古代人の言語体験を追体験することに他ならないのである。一般に古代言語の研究ということは文字を通して観察者において古代言語の音声と意味とが理解せられるという経験そのものを対象として把握することから始まるのであって、このような主体的な経験を除外して我々は古代言語を対象とすることはできないのである。
・同様に、意味の理解できないような外国語を聞いた時でも、これを言語といい得るのは、それらの音声が何らかの意味に対応すべきであるという予想のもとに言語といわれるのであって、なんらの意味をも喚起できないことが明らかにされるならば、これを言語ということは不可能である。
・すべて言語ということのできるものは、つねに主体的活動であり、観察者がこれを対象として把握するということは、観察者みずからの主体的活動において、これを再生することによってはじめて可能となってくるのである。
・主体的なものを、客観的存在に置き換えるということは、研究上の便宜ということによって許されることではない。我々は主体的なものをどこまでも主体的なものとして把握し、記述しなければならないのである。したがって、言語を一の有機的な生命体として考えることや、文化財として考えることは、たとえ比喩的にいう場合においても、極めて慎重な注意を以てなされねばならないのである。


・言語のこのような具体的経験に参与する活動には、純粋心理的側面もあり、生理的側面もあり、物理的な側面もあり得る。
・音声の表出:心理的作用、口腔の発音発声器官の生理的運動
・文字表記;手の運動
・読む場合:眼筋の運動
・言語の具体的な対象は、種々なる異質的要素の組み合わされたものである。
◎しかしながら、言語の本質は、これらの要素の構成の上に在るのではなく、これら要素を結合する主体的な活動それ自体であるから、言語を異質物の寄せ集めと見ることはできない。このような統一的な活動を認めるところに言語の概念が成立するといってもよい。・それはちょうど、音階が異なり、楽器が異なっていても、ある思想感情を音に、さらに楽譜によって表現するという統一的活動の故に、音楽の成立を認識するのと同じである。・このことは、ソシュールの学説を批判することによっていっそう明らかにされると思う。・ソシュールは、具体的な言語活動はつねに二面性をとって現れるが故に科学の対象としてとるに堪えないようにいっている(「ソシュール言語学原論」)が、科学は具体的な経験より逃避することによっては、その根本の立脚地を失うものであることを、まず考えなければならない。個別的特殊的現象を整理して、そこに普遍と統一原理とを見出そうとするのが科学の真の生命といわなければならないのである。


◎私は言語の具体相を混質なる姿においてとらえたのであるが、これを主体的な活動と認めることによって、その活動の形式自体において言語特有な一の統一性を見出そうとするのである。それは同じく表現活動といわれても、音楽とも、絵画とも、舞踊とも異なった形式を持ったものである。言語研究は、このような主体的な活動形式において対象を把握し、その形式を分析することから始まるのである。


【感想】
 ここでは、言語研究の対象になる「言語」とはどういうものかについて、著者の見解が明解に述べられている。「言語」は、文字や音声などの「実体」ではない。文字の実体は線であり、活字はインクの染みに過ぎない。音声も実体は空気の振動である。したがって、「言語」が人間という主体を離れて客観的に存在するという考え方を真っ向から否定するところに、著者の言語論(の特徴)が存在するのである。
 それは、明治以降、近代化の流れの中で国語学者が、「間に合わせに」西欧の言語学で日本語の本質を見極めようとした《誤り》に対する批判でもある。西欧の言語学は「言語」を「実体」と見なし、単音が単語に、単語が文節に、文節が文に、文が文章に「構成」され、それが言語であるというような考え方をしているようだ。 
 著者は、言語は実体ではなく、人間の主体的な活動(表現・認識)そのもの(「心的過程」)であると考えている。文字や音声はその媒体に過ぎない。したがって、文字や音声を獲得しても、その過程に表現・認識という主体的な活動が伴っていなければ、有効に使いこなすことはできないということである。乳幼児の言語教育、それ以後の国語教育、英語教育などの方法を考えるうえで、たいへん参考になる考え方であると、私は思った。(2017.8.28)