梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「黄昏のビギン」・第8章・《魔法瓶》

 シロを犬小屋に置き、私たちは家の中に入った。 
私は、散歩の途中、マリ子に会い、今、自宅で保護していることをユキに知らせておかなければならないと思った。
「そうだ。お母さんに電話しておこう」
 しかし、マリ子はキッとした表情で私をにらみつけ、
「ヤメテ!」
と、大声で叫んだ。
「どうして? 心配するといけないだろう?」
「シンパイナンカ スルモンカ! アンナ オンナ」
マリ子は、強い口調で、吐き捨てるように答えた。
 『アンナ オンナ』という言葉は、意外だった。どういうことだろうか。仲睦まじそうに見えた二人は、そんなに険悪な関係だったのか。でも、二人の関係に、さらに大きな溝ができてはいけない。私は、とりなすように、言ってみた。
「そうかなあ。やさしいお母さんのように見えるけど。マリのこと心配していたよ」
「ウソ! マタ ワタシノ ワルグチヲ イッタンダロ。『ココロノ ビョウキ』トカ、ナントカ・・・」
私は、二の句が継げなかった。
「アノ オンナハ ワタシノコトナンカ ドウデモ イインダ。ジブンノセワヲ サセルタメニ ワタシヲ ツカッテイルノ。ワ・カ・ル?」
「・・・・・」
「アノネー アノオンナハ ワタシノ オカアサン デハ ナ・イ・ノ!」
「・・・・・」
 「オカアサンノ フリヲ シテイルダケナノ!」
マリ子は、じれったいというような素振りで、私にしがみついてきた。そして、また、私の体に顔を埋め、クンクンと匂いをかぎまくるのだった。
 私は、無言のまま、マリ子に「愛撫」されていた。(ユキがマリ子の「実母」でないことはわかっていたが、その気持ちが、「実父」ではない「あんな男」を「お父さん」と呼ばなければならなかった、私自身の少年時代と「瓜二つ」のように重なった)
 こみ上げる気持ちをおさえきれず、私もまた、マリ子を強く抱きしめた。
「モット ツヨク! モット ツヨク!」
いつのまにか、二人ははベットの中で、全裸のまま繋がっていた。
 私は、これまで「愛欲に溺れた」ことはない。数知れず「異性との交遊」はあったが、「溺れる」のは、いつも相手の方だった。しかし、今回は、違っていた。マリ子の肢体が、私の全身を「海」のように、包み込んでしまうのである。下腹部の「結合感」を夢心地で確かめながら、大きく、上下するマリ子の胸の息づかいを、「波のうねり」のように感じて、私は溺れた。
 フーッと息を吐いたマリ子の匂いは、「潮の香り」そのものだった。
しばらくして。マリ子が口を開いた。
 「ジョーサンッテ イイ ニオイ。『シロ』ノ ニオイト オンナジ・・・」
 「マリの匂いは、海と同じだ」
「ソウ? ジョーサン、ワタシノコト スキ?」
「好きだよ」
「ドーシテ?」
「どうしても」
 「ジョーサン、オクサンハ イナイノ?」
「いないよ」
「ドーシタノ?」
「この家を出ていったよ」
「フーン・・・。」
「娘二人を連れて、出ていったよ」
「フーン。ジャア、ワタシト、オンナジダ」
「マリも、家を出ていったの?」
「ソウヨ。デモ、コドモハ、オイテキタ」
ふと、現実に戻ったのか、マリ子はベッドから起きあがり、着衣を始めた。
「モウ カエラナクッチャ。」
 私は寂しかった。いつまでも、このままの状態でいたかった。しかし、今日はマリ子と話ができたのだから、これで終わりにしてもよいかもしれない、と思った。
「そうだね。じゃあ、家まで送っていこう」
 しかし、マリ子は拒絶した。
「イイノ!」
「どうして?」
「ヨケイナコト シナクテ イイノ!」
「でも・・・(お母さんが)」と言いかけて、私は「しまった」と思った。
「デモ ナニヨ?」
「いや・・・、何でもない」
「マタ アノ オンナノ コト カンガエテ イルンダロ」
「・・・・・。」(図星だった)
「アノ オンナノ コト カンガエテ イルンダッタラ モウ アッテ アゲナイカラ」
「わかったよ。今度、いつ会えるの?」
「ワカンナイ」
「そうか、でも、待ってるよ」
「・・・・・。」(マリ子の開きかけた心が、また遠のいていくようだった)
 マリ子は、手鏡で髪の毛を整えると、無言で帰り支度を始めた。何とか、次の機会を約束したい。しかし、とりつく島がないようだ。マリ子は、私を無視して犬小屋に行き、「シロ、バイバイ」と言った。だんだん、昨日の駅前広場の表情に近くなってくる。
 私は、つとめて平静に、マリ子を見送らなければならなかった。肩から掛けた魔法瓶が、夕日を受けて、一瞬キラリと光ったように感じた。(「気をつけて帰ってくれ」、そう念じながら、マリ子の後ろ姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた)
私自身に、後ろめたさはなかった。(「来る者は拒まず」という信条、それに従うのが、ジョー、オマエの生き方なんだから・・・、と確信しながら)
(2006.7.20)