梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「黄昏のビギン」・第9章・《黄昏のビギン》

 その日から、一月が経った。案の定、花形親子からは何の連絡もなかった。マリ子がユキを「アンナ オンナ」という限り、滅多に電話することはできない。毎日のように、シロと駅前広場に行って見たが、いっこうに二人は現れない。いつもなら「去る者は追わず」で「終わり」になるところだが、今回は違っていた。時が経てば経つほど、「もう一度、会いたい」という心残りが募るばかりである。(ばかばかしい、五十男と中年女の「道行き」なんて、様にならないぜ)と、自分に言い聞かせてみるのだが、どういうことだろう、「胸騒ぎ」はおさまらない。(おかしい)
犬小屋の前で「シロ、どうかしちゃったんだよ。助けてくれ」と言っても、シロは黙って困惑の表情を見せるだけだった。
 食欲が減ってきた。何かをしようという意欲がなくなり、ただぼんやりとベットに横たわる時間が長くなった。どうしても力が湧いてこない。
 そんな時だ、居間の電話がけたたましく鳴り響いたのは・・・・。私は、ベットから飛び起き、受話器にしがみついた。
 「もしもし」
「・・・・・。」
「もしもし、新庄です」
「よう、ジョーか? 元気か?」
男の声だった。
「どちらさまですか?」
「どちらさま?はないだろう。オレだよ、オレ。カントだよ」
 全身の力が抜け、私はその場に座り込んだ。(ナーンダ、カントか。がっかりさせるぜ、ホントに・・・。)瞬く間に、気持ちが沈んでいく。(でも、まあいいか。ちょうど話し相手が欲しかったところだ)と、思い直して口を開いた。
「やあ、しばらく」
「今、近くまで来ているんだ。これから行ってもいいかな?」
「ああ、いいよ」
「じゃあ、待っててくれ」
と言って、電話は切れた。
カントとは、中学、高校時代をともに過ごした、私の昔なじみである。そう言えば、もう何年も会っていない。最後にあったのは、いつだっただろうか。たしか、初めて就職した頃、彼の家を訪ねたことがあった。彼は、下町のアパートで新妻と二人、幸せそうに暮らしていた。たしか、小学校に勤めていたはずだ。それ以来だから、さぞ様子も変わったことだろう。(でも、「声」ってなかなか変わらないものだな。カントという言葉を聞いたとき、一瞬でわかったもの)などと考えながら、応接間をかたづけた。
 まもなく、カントがやって来た。
 手に持った泡盛の瓶と佃煮の折りを差し出しながら、彼は言った。
 「よう、しばらく。元気か?」
「うん、まあな。あがれよ」
 彼は玄関を上がると、自分の靴を揃え、居間の方へ歩いて行く。
「おい、こっちだよ」と、応接間に誘おうとすると、
「建て替えたのか? ああ、この部屋は昔のまんまだ」と言いながら、仏壇の前に座り、線香を灯した。手を合わせ終わると、「ずいぶん、あんたのお母さんにはお世話になったもんなあ」と言いながら、応接間に戻ってきた。
カントの容貌は、かなり変わっていた。度の強いメガネは昔のままだったが、頭髪は薄くなり、ところどころ白髪が目立っていた。
 「お互いに年をとったな」と、カントは言った。
 「そうか? オレはまだ現役だぞ」
「何が? ・・・。まあいいか、ハハハハハ・・・」
 二人は、顔を見合わせて力なく笑った。
「じゃあ、飲もうか」
「うん、飲もう」
 カントは、泡盛の瓶を手早く開けると、二つのコップになみなみと注いだ。
 「乾杯」と言って、泡盛を口にする。しびれるような感覚が、口いっぱいに広がり、それが喉、食道へと降りていった。
 「久しぶりだな。元気だったか?」
「ああ、元気だった」
「それは、よかった」
 カントは、話し出した。
 「ジョー、オレは『信州酒蔵』であんたと飲んだ升酒が忘れられない」
「ふうん、そんなことがあったかなあ」
「あったとも。オレは本を読みすぎて、活字が目に突き刺さるようになったんだ。夜、眠れなくなり、完全におかしくなった」
 「そうか、そう言えば、そんなことがあったなあ」
「夜が恐いんだ。みんな寝静まっているのに、オレだけは眠れない。やっと夜が明けて、外へ出ると、足元がふらつく。走っている車の方に寄って行き、ぶつかりそうになってしまうんだ。『おかしい』と思って友だちに相談したが、みんな『気のせいだ』と言って取り合ってくれなかった。あんただけだよ。『わかる、わかる』と言ってくれたのは。たしか、その時『聖書』の話をしなかったか?」
 「そんな話をしたかなあ?」 
 私は、思い出せなかった。 
 「その後だよ。『飲みに行こう』と言って『信州酒蔵』に行ったのは。オレは泥酔して下宿に帰った。どうやって帰ったかも憶えていないくらいだったが、何と、次の日から、オレの不安は、いっぺんに吹っ飛んでしまったんだ」
「ふうん」
「ジョー、だから、あんたはオレの命の恩人だよ。オレが今、こうしていられるのはあんたのお陰だと思って、感謝してるんだ」
 「そんなもんかなあ」
「そんなもんだよ。だからオレは『心の病気』なんて、簡単に治せると思っているんだ。オレは『精神病』なんて信じない。あるのは体の病気だけだ」
 「じゃあ、精神科の医者は何をしているんだろう」
 「何もしていない!」
「そうか?」
「『精神病』と言われている状態は、コミュニケーションの断絶状態なんだよ。だから、誰だって、話し相手がいなくなれば、『精神病』と呼ばれる状態になるんだよ。薬では治せない」
「そうか」
「昔から言うじゃないか。『お医者様でも草津の湯でも恋の病はなおしゃせぬ』ってね、ハハハハハ・・・・」
「古いなあ!」
 私は、つくづく「カントは年をとった」と思った。
泡盛のコップは空になり、二杯目がなみなみと注がれた。快く酔いが回って、今度は私が話す番だった。
 「カント、君の話は『それなりに』面白かった。今度はオレの話を聞いてくれるかい?」
「ああ、いいとも。何なりと」
 「実を言うと、今、オレ、元気がないんだ」
 「ふうん」
 私は、花形親子との出会い、経緯について、ありのままを話した。(ただし、ユキとの情事は秘めながら・・・)
カントは、じっと目をつぶって聞いていたが、やがて、神妙に口を開いた。
「ジョー。あんたは『聖書』を読んでいたけど、神様を信じることができるか?」
「いいや、信じられない」
「そうか」
「どうやって信じればよいか、わからない」
「そうだよな、オレもわからない。でも、そのマリ子という女性って、ジョーの神様なんじゃないか?」
「どういうことだ?」
「イエス・キリストは、なかなかあんたの心の中に入ってこないけど、マリ子さんは、一瞬にして、あんたの心を占領してしまったじゃないか」
 「・・・・?」
「神は信じられないけれど、人は信じられる、ということではないかな。クリスチャンからは怒られるに決まっているが・・・」
 そうかもしれない、と私は思った。
「オレも、そんな神様に会ってみたいな。その人、ジョーのこと『いい匂い』って言ったんだろ。それは、本物だ。人間は動物だから、嗅覚で相手を判断するのさ。ジョーも、その人の匂いが忘れられないんだよ。素晴らしいじゃないか」
 「そうかな」
「ジョー、オレはね。人間にとって『最愛の人』は一人しかいないと、思うんだ。その一人と、死ぬまでに会えるかどうか。ほとんどの人間は、出会えないで死んでいく。それが人生だと思う。もし奇跡的に出会えたとしたら、こんな幸せなことはない。『至上の幸福』というやつだ。あんたは、その一歩手前に来ていると思うよ」
(カントは甘い。昔のまんまだ。『最愛の人』なんて、相対的なもの、その時その時、の成り行きに任せて、感じているだけなのに)そう思いながらも、話の腰を折らないように、うなずいて、私は言った。
「でも、もう会えないかもしれない」
「会える、会える。心配ないよ。待つことだ。耐えることだ。必ず、連絡があるよ。『聖書』にも書いてあるぞ。『然のみならず患難をも喜ぶ。そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずると知ればなり。希望は恥を来たらせず、我らに賜いたる聖霊によりて神の愛、われらの心に注げばなり』ってね」カントが聖書の「御言葉」を言うとは意外だった。しかも文語体で・・・。彼は「練達」という言葉の意味がわかっているのだろうか。別の聖書では「品性」とも訳されていることを知っているのだろうか。この「御言葉」は、「新約聖書・ローマ人への手紙・第五章三節~五節」にある。口語体では「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と訳されている。
 私はこの「御言葉」を、不敬にも「人間、我慢が肝腎、辛抱していれば、そのうちいいこともあるさ」ぐらいに解釈してきた。その結果、「希望が失望に終わる」ことの何と多かったことか。今回もまた・・・。 
 しかし、「もう一度、マリ子に会えるなら、神を信じてもいい」などと、懲りない「罪」を重ねるばかりだ。こんな私の心に神の愛が注がれるはずがないではないか。そう、自分に言い聞かせていた。
二杯目の泡盛が空になったとき、カントは言った。
 「今日は、突然で、悪かった。これで失礼するよ」
「そうか。また来てくれよ。家には誰もいないから」
「ああ、そのうちに、また来るよ。そうだ。忘れてた。最近、ちょっとした逸品を見つけたんで、持ってきた。時間があったら聴いてみるといいよ、置いていくから」
 見ると、『ちあき なおみ すたんだーど・なんばー』と表記された、一枚のCDだった。
 カントが去った後、私は三杯目の泡盛をコップに注ぎ、佃煮を肴に独りで飲み始めた。ほろ酔いの段階はとうに超え、体内の泡盛が、瓶の中の泡盛を呼び寄せているようだ。(カントは、「泥酔したあと不安が吹っ飛んでしまった」と言った。私の不安も吹っ飛んでくれるだろうか)だんだん視界がぼやけてくる。(どうした、ジョー。もう疲れたか。死にたいか。)そう叫ぶ自分の声が聞こえる。後から後から「死」という文字が現れては消え、現れては消え、頭の中を駆けめぐった。「ジョーサン、ワタシヲ コロシテクレル?」と言ったマリ子の声が聞こえてきた。(今なら、殺せるかもしれない、一緒に死ねるかもしれない)と、ボンヤリ思った。
 漠然とした「死の予感」、それを私が感じたのは、三歳の時だった。(もし、私が「特別」な人間だとすれば、同世代の誰よりも早く「死」を意識しはじめたからかもしれない)
実家の大きな庭先で、私は、兄弟、従兄弟たちと遊び呆けていた。梅雨の頃、一人の従兄弟が、「お腹、いたい!」と言って帰った。翌日、彼の姿が見えないので、「どうした?」と訊ねると、「夜、死んじゃった」と、誰かが答えた。その日以来、幼い従兄弟、姪の乳児が、たてつづけに三人死んだ。疫痢だった。小さい棺に納められ、土葬される仲間を見送りながら、「イヤダ! こんな所に入りたくない」と叫んだことを、今でも鮮明に憶えている。私は死にたくなかった。その恐怖を紛らわすために「コワイヨー、コワイヨー」と泣きじゃくりながら祖母の背中に負われることが多くなった。祖母の背中は「日溜まり」の匂いがした。「土」の匂いがした。その匂いが、少しずつ、私の恐怖を和らげていったが・・・・。
 昔の記憶は、そこで途絶えた。
 私は、ふらつく足で立ち上がると、カントが置いていったCDをデッキに入れ、スイッチを入れた。物憂いヴァイオリンのメロディーが流れ初め、ちあき・なおみのアンニュイに満ちた歌声がギターの伴奏にのって聞こえてきた。 
 「雨に濡れてた 黄昏の街」「あなたと歩いた 初めての夜」「・・・・・」「夕空晴れて・・・・」「あなたの瞳・・・ 」「二人だけの・・・・」
 そうした、ところどころの歌詞を耳にしながら、私の意識はしだいに薄れていった。
(2006.7.20)