梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「黄昏のビギン」・第7章・《村上鬼城》

(ユキから電話が入るかも知れない)と思いながら、一週間が過ぎた。しかし、何の連絡もない。私は、思い切って電話をかけてみた。「リーン、リーン」という呼び出し音は鳴るのだが、相手が出る気配はない。私は、不安になってきた。(どうしたのだろうか? 何かあったのだろうか?)
 しだいに、いたたまれなくなってきた。  
私は、犬小屋に行き、声をかけた。
「シロ、散歩に行くぞ! お嬢さんの所だ」
 シロは、一言「ワン」と応え、私に付いてくる。
 住宅街をぬけ、高架線の下まで来たとき、向こうから走って来る女が小さく見えた。その瞬間、シロは、反射的に私のロープを振り切ると、その女に向かって走り出した。
 よく見ると、マリ子だった! 髪を振り乱し、裸足のまま走っている。
やがて、シロがマリ子にからみつき、彼女はその場に崩れるように倒れ込んだ。私も駆け寄って見ると、息を大きく弾ませながら、シロの首筋に顔を埋めている。私は、看病でもするように、マリ子の背中をさすった。
 つとめて平静に、
 「どうしました、お嬢さん?」
と、言って見た。
 その時だ!思いがけなく、突然、マリ子の口が開いた。
「ワタシ、ジョーサンノ、オウチニ、イキタイノ」
 私の顔を直視する、彼女の瞳がうるんでいる。
「えっ?」
私は仰天した。幼女のような声だった。。
「ソウ、ジョーサンノ、オウチニイッテ、オハナシガ、シタイノ」
呼吸を整えてから、私は、またまた、つとめて平静に、答えた。
「そうだったのか、そうだったのか、よし、よし、わかった、わかった」
私の口調も、幼児をあやすように、自然にくだけた調子になった。
「ジョーサンノ、オウチニ、イッテモ、イイノ?」
「いいよ、いいよ、いつでもいいよ。家には誰もいないから」
「ウレシイナ」
 マリ子は、体を私にすり寄せ、腕をからませてきた。
「よし、よし、家に行こう! シロ、お嬢さんは家に行きたいんだって! オウチに向かってゴー!だ」
 私の声は弾んでいた。(マリ子が話をしてくれた。「心の病気」が治るきっかけがつくれるかもしれない。いいぞ!いいぞ! しかも「オハナシガ シタイ」とまで言ってくれたではないか!)
 シロは、一声「ワン」と吠えると、盲導犬のように、私たちを案内しはじめた。
「シロハ、ミチ、ヨクシッテルヨ」
「お嬢さんは、シロと、お話をしたんだね」
「アノー、ジョーサン、ソノ、オジョーサントイウノ、ヤメテクレマセンカ」
「そうか、そうか、では、何と呼べば、いい?」
「マリ!」
「そう、マリって呼んでいいの。ありがとう。これからはマリって呼ぶからね」
「ウン」
 マリ子は嬉しそうにうなずくと、私の体に抱きつき、クンクンと匂いをかぎまくった。 「イイ、ニオイ!」
通りすがった中年の男女が、あきれた表情で私たちを見ている。「公衆の面前」であったが、私は、つとめて平静だった。(何とでも思うがよい。わたしは、この人の「心の病気」を治そうとしているのだ。そのことを、この人の母親から頼まれているのだ) マリ子は、それから堰を切ったように話し始めた。
「ジョーサン、キジョーッテ、ワカル?」
「わからないなあ、何のこと?」
「ヒトノ ナマエヨ。ワタシノ、スキナ」
「へえー。どんなことをする人?」
「ハイジンヨ」
「ハイジン?」
 私は『廃人』を思い浮かべた。
「ハイクヲ、ツクル、ヒト」
「ああ、俳人だね」
「ソウ、ムラカミ・キジョーッテ、イウ、ヒト!」
「どんな俳句を作ったの?」
「フユバチノ シニドコロナク アルキケリ」
 「ふうん」
「アノネ。フユニナルト、ハチハ、ミンナ、シンデシマウノ。デモ、イッピキダケ、シニタクテモ、シネナイハチガ、イルノ。ソノハチガ、ドコデシネバイイカナーッテ、シヌバショヲ、サガシテイル、トコロナノ。ワカッタ?」
「わかった、わかった」
「イマノ ワタシノ、キモチニ、ピッタリ!」
「そうか、そうか。マリはその蜂の気持ちが分かるんだね」
「ソウ!」
「わかるよ、わかるよ。マリは死にたいんだね」
「ジョーサン、ワタシヲ、コロシテクレル?」
「マリは、ボクに殺してほしいの?」
「ソウ、ダレデモイイケド、コロシテ、ホシイノ」
「生きていることが、苦しいんだね」
「ソウ、イキテイルコトガ、クルシイノ」
「わかるよ」
「ホントウニ、ワカッテイルノ?」
「うん・・・・」
 私は、涙声になっていたかもしれない。マリ子はどうしてそんなに死にたいのだろうか。そこまでは、わかる術もなかった。これ以上、マリ子に「殺してくれるの」と詰問されれば、私は答に窮するだろう。そう思ったとき、幸いにも、私たちは、自宅の前に着いていた。
(2006.7.20)