梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「人間革命」(池田大作・聖教新聞社・2013年)の《疑問》・3

 「人間革命」(池田大作・聖教新聞社・2013年)全12巻は、日蓮の教義(法華経および御書)を《広宣流布》するために記された。だとすれば、その真髄である教えがどこかで説かれているはずだ。さまざまな出来事の描写に添えて、部分的に触れられることがほとんどであったが、第12巻「後継」の章では、その根本が要約されているように感じた。
 1958年(昭和33年)元日、戸田城聖は創価学会本部で、初勤行の後、東京の支部幹部200人ほどに向かって語り始めた。以下はその内容である。  


①寿量品には、本因の妙、本果の妙、本国土の妙の三妙が合論されている。
②妙とは思議しがたいことをいう。
③仏の境界を得るための原因を本因、仏道修行によって得た結果を本果、その仏が住する所を本国土という。
④本果の妙を表しているのは、寿量品に「如是我成仏己来、甚大久遠」とあるように、釈尊は30歳で悟りを開いたのではなく、久遠の昔から仏になっていたということである。⑤では、その仏はどこにいるか。法華経以前の教えでは、浄土にいると説かれてきたが、寿量品では娑婆世界に、凡夫と一緒にいると説く。それが本国土を示す「我常在此娑婆世界、説法教化」という文で示されている。このことの意味を深く考えれば、南無妙法蓮華経の生命は、久遠以来、大宇宙とともにあるということである。
⑥大事なことは、仏は現実の世界以外にはいないということだ。
⑦釈尊が仏の境界を得るには、その根本原因があった。それを明かしているのが本因妙であり「我本行菩薩道・・・」という箇所である。
⑧菩薩の道とは、南無妙法蓮華経である。私たちは、この南無妙法蓮華経という仏の悟りを、直接信じて仏になるのだ。
⑨この成仏の根本原因を説くのに、釈尊は、すでに成道した仏、すなわち本果の立場で説いている。だから、寿量文上の釈尊を、本果の仏と称する。
⑩しかし、日蓮大聖人は、凡夫の立場で、本因の菩薩道を説き、行じられた。ゆえに大聖人様は本因の仏となる。
⑪ここに、本果妙の釈尊の仏法と、本因妙の教主釈尊すなわち日蓮大聖人の仏法との大きな相違がある。


 ここで戸田城聖は、釈尊と日蓮の違いを説明しているようだが、凡夫の私には、釈尊は本果の仏、日蓮は本因の仏である、釈尊はすでに久遠の昔から仏であったが、日蓮は凡夫の姿で、南無妙法蓮華経という菩薩道の修行を通して仏になった、という程度のことしかわからない。強いていえば、《だから、凡夫である私たちも、南無妙法蓮華経を信じれば、生きている間に仏になれる。そのためには毎日の勤行をおろそかにしてはいけない》ということにでもなるのだろうか。
 初代会長・牧口常三郎は「価値論」を唱えたが、二代会長・戸田城聖は獄中で「法華経」を学び「生命論」を会得したという。両論にどのような違いがあるかを是非知りたいと思ったが、残念ながら「人間革命」を読んだ限りでは明らかにならなかった。それが、私の最大の疑問である。次は「法華経」を読んでみたいと思う。
(2019.5.14)