梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

憲法記念日

 今日は憲法記念日である。「日本国憲法」が施行されたのは1947年だから、爾来72年が経過したことになる。それ以前の「大日本国憲法」は1890年に施行、1947年まで57年間の存続であった。つまり「戦前」よりも「戦後」の期間が15年間も長くなり、今日を迎えているということになる。そして、「戦後」は「日本国憲法第9条」の規定に《制約》されて、戦争のない時代が続いている。「国益優先」の軍需産業、民族主義、覇権主義、好戦主義が渾然一体となった「積極的平和主義者」にとっては、まことにもどかしい、間怠っこしい事態に違いない。そこで、その規定を改め、戦争を行える国に変えようとする画策が企図されている。
 私は自由民主党の「憲法改正草案」には全く同意しないが、「日本国憲法第1章 天皇」は削除するべきだと考える。すなわち「第1条 天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく。」という規定には、多くの矛盾が存する。その矛盾は「大日本帝国憲法」の「第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」「第四條 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」を廃したが、《天皇制》は存続するものとして「第三條 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という天皇の地位を、《象徴》という曖昧きわまりない、摩訶不思議な概念で規定することによって生じる。要するに、戦前は「現人神」であった昭和天皇が、敗戦の責めを負わずに、その地位を維持するためには、まず「人間宣言」をし、しかし、人間としての「基本的人権」は大いに制限される「象徴」とやらの地位を甘受せざるを得なかった、ということである。平成天皇はその地位を引き継ぎ、「象徴」とはどんな存在なのか、決められた国事行為をこなすだけでよいのか、「象徴」として何をなすべきか、を暗中模索したに違いない。そして「戦没者の慰霊」「平和への祈り」「自然災害被害者への見舞い」等、不戦の誓いと国民への奉仕こそが「象徴」としての責務だと思うようになったのだろうか。いずれにせよ、「基本的人権」を大いに制限された「象徴」という存在は、民主主義を標榜する憲法の理念に著しく反するのである。「日本国憲法」の制定と同時に「皇室典範」も改められたが、「第1条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」という規定も旧態依然である。皇室においては、未だに戦前の「家父長制」が改められていない証だ。天皇のみならず皇族も「国民」ではない。かつて(戦前)の「特権階級」が未だに残存している証でもある。
 「日本国憲法」が、「主権在民」「平和主義」「基本的人権の尊重」を標榜している限り、天皇および皇室の存在(第1章 第1条~8条、「皇室典範」)は、その基本理念と全く相反する矛盾なのである。とはいえ、共同通信社が実施した世論調査によれば、天皇制の在り方に関して「今の象徴のままでよい」が80.9%で最も多く、「天皇制は廃止する」は4.8%に過ぎなかったそうだ(東京新聞5月3日付け朝刊1面「女性天皇賛成79%」)。
これが日本国民の《人権意識》だと思うと背筋が寒くなる。「今のままでよい」と応えた方々に言いたい。《一度、皇族になってみたら?戸籍もなく、選挙もできず、職業選択の自由、思想信条の自由もなく、プライバシーも制限される。それでも、あなたは耐えられるか?》 (2019.5.3)