梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「新元号」(令和)雑感・2

 新元号が「令和」に決まったことで、《西暦から令和(レイワ・018)を引くと令和の年号になる》(から素晴らしい)という説が蔓延っているようだ。たとえば2020年は2020-018=2で令和2年、2025年は2025-018=7で令和7年というように・・・。要するに、令和を018と数字化すると、西暦から令和に「換算しやすい」ということのようだが、アホらしくて話にならない。西暦がわからなければ令和がわからない、という点で、西暦を知ることが前提となるからである。つまり、西暦だけで「事足りる」(あえて令和を使う必要がない)ということを証明しているようなものだ。
 歴史を振り返るまでもなく、元号と西暦が互いに入り乱れて使われることは、混乱するだけである。もし日本の社会において元号が不可欠だというのなら、誰でもが納得できる「案」がある。平成天皇が退位した後の元号は《平和》(平成の平、昭和の和)年号は西暦を踏襲して2019、5月からは《平和2019年5月》とすればよいのである。さらに《平和》という元号は、日本の社会が続く限り《変わらない》。なぜなら《平和》は誰もが臨む理念であり、平成時代の財産として国際社会にも発信し続ける価値があるからである。現在、西暦紀元前はB.C. (Before Christ)、紀元後はA.D.(anno Domini)と表記されているが、今後はそれに代わってO.P.(of Peace)あるいはW.P.(World Peace)とでもすることを提案すればよい。
 そうなれば、元号の年号を西暦に換算する必要がない。人類が希求している理念がつねに(しかも永遠・恒久に)表記されるという利点がある、と私は思う。 
 なお、元号は俗用されていないもの、特定の商標などにないものから選ぶなどという慣習があるようだが、《平和》という言語は未だに俗用されておらず、それらの下位概念をはるかに超える崇高なものでなければならないことを付け加えたい。
(2019.4.14)