梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

高校球児・「サイン盗み」

 昨日、「選抜高校野球大会」の決勝戦が行われ、愛知の東邦高校が優勝した。 
 ところで、私は9年ほど前に、以下の駄文を綴った。


◆高校球児・帽子の被り方
連日、甲子園で展開されている高校野球のテレビを観ながら思うことがある。それは球児の「帽子のかぶり方」、ほとんどのチーム、ほとんどの選手が、帽子の前面を「壁」のように「直立」させ、頭頂部の天井部分を凹ませて被っている。なぜだろうか。偏屈な老人の私には、その感覚が全くわからない。「見た目」なのか、その方が「涼しい」からか。専門家の御教示を仰ぎたいところだが、もし「見た目」、そのほうが「恰好いい」と思っての仕業だとすれば、「アホか」と一笑に付す他はない。本来の野球帽は、打撃用ヘルメットを見れば一目瞭然、前面が直立したり頭頂部が凹んだりはしていない。そんな中で、一人の選手が件の被り方を堂々と披露したとすれば、それはそれで個性の表現、文字通り「恰好いい」と私も思う。だが現実は、監督を筆頭に(まさかそのような醜態をさらすことはないにしても、黙認していることにかわりはなく、同じ穴の狢である)、レギュラーはもとより補欠選手、はたまた応援席の野球部員まで「一様に」、そのような被り方をしているのだから「手に負えない」。かつての旧制高校、大学のバンカラ連中が学帽を油で固め、押しつぶして被った醜態と大差ないではないか。そんな時、第2日目第1回戦に出場した「遊学館」(石川)、第4日目1回戦に出場した福井商(福井)の監督、ベンチ入り選手たちは、小細工を弄することなく、通常・本来の被り方をしていた。それかあらぬか、二校とも初戦突破、まさに「御同慶の至り」である。その清々しさに快哉を叫んだ次第である。大リーグ、プロ野球選手の面々をみても、野球帽の被り方に小細工はしていない。なぜ高校野球だけが?、まして(たてまえは)教育活動の一環であることを強調する「高野連」関係者の説明・解説をうかがいたい。とはいえ、そんな瑣末な事柄に拘る、私自身の「老醜」「耄碌」の方が問題であることは承知している。南無阿弥陀仏。(2010.8.10)


 当時と比べて、「遊学館」(石川)、「福井商」(福井)のように「普通の被り方」をしているチームが増えてきているかもしれない。事実、優勝校の「東邦」(愛知)の選手は「普通の被り方」であった。一方、相手校の「習志野」(千葉)は「遠慮がちに」帽子の天井を凹ませていた。「だから負けた」とは言わないが、きわめて順当な結果であったと、私は思う。加えて「習志野」は、まだ話題を提供する。「星陵」(石川)との一戦で「サイン盗み」を疑われ、試合終了後も監督が控え室に談判に来たという。前代未聞の珍事、「教育活動の一環」としては弁解のできない失態が露わになったが、なぜそんなことが起きたのか。「星陵」監督の「未熟さ」に帰すことは簡単だが、その前にそもそも「サイン盗み」を禁止している「大会規則」そのものに問題があるのである。
 「大会規則9」は以下の通りである。


《9 走者やベースコーチなどが、捕手のサインを見て打者にコースや球種を伝える行為を禁止する。もしこのような疑いがあるとき審判委員はタイムをかけ、当該選手と攻撃側ベンチに注意をし、止めさせる。》


 この規定は「コースや球種を伝える行為」が定義されていない限り、全く無意味である。
 3月28日付けの『日刊スポーツ』では、以下のように解説されている。
《日本高野連は98年に「マナーの向上」の指導要綱として、二塁走者やベースコーチが捕手のサインを見て打者にコース、球種を伝えたり、ベースコーチが走者の触塁に合わせ「セーフ」のジェスチャーをするなどの行為を禁止することを決めた。99年のセンバツから適用され、審判が口頭で指導するとした。》
 ここでも、その行為を「審判が口頭で指導」したところで、罰則が無い限り、全く無意味なのだ。


 ことほどさように、「高野連」のコンプライアンスは「教育的」で《曖昧》だ。もし、審判の判定に不満があった場合、当事者(選手)または監督はどうすればよいかも明らかにされていない。だから「星陵」監督は「習志野」の控え室に《怒鳴り込む》羽目になってしまった。背後には各関係者、地元ファンからの「熱い期待」というプレッシャーを感じていた違いない。冷静になってから反省、謝罪したが、とんだ恥さらしを演じたものだ。
 「高野連」の教育者連中に言いたい。サインとは「暗号」であり、盗まれるような代物はもともとサインとして成立しないのだ。走者やベースコーチがコースや球種を伝える行為もまたサインであり、審判委員に疑われるようでは話にならないではないか。したがって、その「行為」を定義できない限り、件の「大会規則9」は、「有名無実」でありかつ「有害無益」だということになる。
 野球はもともと「頭脳のゲーム」、堂々と互いにサインを盗み合えばよいのである。
 面白いことに、疑いをかけられた「習志野」の監督は「どこ吹く風」と受け流し「知らぬ顔の半兵衛」を通しているが、決して正体(真実)を明らかにしない強者だろう。それかあらぬか「習志野」という学校自体が「私立」なのか「市立」なのか「県立」なのかも明らかにしていない。同じ千葉でも(県立と区別するために)「市立船橋」という有名校もあるのに・・・。返す返すも残念なのは「帽子の被り方」、そこにまだまだ未熟な「正体」が露呈されてしまったことである。(2019.4.4)