梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・32

【要点】
《其五白河国造》
 白河国造家は阿部系、丈部、大伴系の三祖を並存している。
《其六岐閇》 
 岐閇氏は、多珂、石城の国造と同様、凡河内系と出雲系の二祖を生じている。
《其七多珂国造》 
 多珂国も、天津彦根命の凡河内系、天穂日命の出雲系の二祖を併発している。
《其八筑波国造》
 筑波国造は、凡河内、多、物部の三祖を併発したらしい。
《其九无邪志・胸刺国造》
 无邪志国・胸刺国は武蔵国である。国造をめぐる多祖現象の乙種に属するもの、すなわち自域内外における諸他の伴造や、小国造を包容し、自族化している型の代表的な一つである。まず、足立郡に氏神氷川神社を奉斎して栄えた一族があった。この一族は出自は出雲系であるが、物部氏と関係が深く、氷川神社の祀官はいずれも物部氏であるという。胸刺国造はこの一族であって、「兄多毛比命の児伊佐知直」を初祖とする族である。伊佐知直の子筑磨の系が物部直、大伴直となったが、この両系は氷川社家西角井氏(物部氏)と同族で、大伴直は代々この地に国造として治し、後武蔵宿禰となる氏である。 
 一方、多摩郡の治所は、今の府中であって、大國魂神社を祀る。孝徳天皇御世、この地に国府を置き、当社を以て斎場となし、一国の祭務を総括する所に充て、よって武蔵総社という。この地こそ无邪志国造の治所で初祖兄多毛比命の多毛比は、多摩と同語、多摩領主の意であろう。かくて、父兄多毛比の母族は多摩郡にあり、子伊佐知の母族は海上にあるが、それから引かれた系である物部一派の母族は足立郡にあったのである。当初の武蔵国造の治所は多摩にあり、足立が治所となったのは、はるかに後代のことであると思われる。
 安閑紀元年條に「武蔵国造笠原直使主、輿同族小杵相争国造」と見える。笠原直は武蔵国造の一員であるのみならず、すこぶる重要な勢力を有する族らしい。国造系図中、兄多毛比命條にも「兄多毛比命、一に云う、大多毛比命、志賀高穴穂朝御字、成務天皇の御時、五年秋九月、无邪志国造に定め賜う○。足立郡足立府、亦埼玉郡笠原郡に家居し云々」とあり、国造の家居の一を笠原郷と記載したのは、足立府以前の国造治所が同地であったことと、特に兄多毛比の家居としたことには、兄多毛比自身となんらかの関係があった地であると考えられる。兄多毛比への系はこの笠原族から発したのではあるまいか。すなわちこの氏は兄多毛比の父家ではあるまいか。この氏が元来出雲系で、神武東征の折り、伊勢国から信濃地方へ避国した伊勢津彦の子孫かと思われるのは、信濃に笠原地名多く、諏訪神氏系図にも笠原氏あり、諏訪神氏は大国主命の後であることである。伊勢津彦が信濃へ避国したのは、諏訪神氏をが頼ってのことであり、その系が笠原氏を発したのではないかと考えられる。笠原氏は武蔵国造の元系であると思われるから、後代に至って、多摩に治する兄多毛比母族との間に国造争奪の紛争が起こったものであろう。その紛争が一時の確執ではなく、由来久しいものであったことは、安閑紀の文中に「経年難決也」とあるによって窺われる。この紛争は笠原氏の勝利となった。小杵は同族とあるのみで住所も氏姓も不詳であるが、多摩母族の流であろうことは、笠原直が勝利の後、朝廷に奉った四処の屯倉が、すべて武蔵西南部すなわち多摩地方に属するものであることが、これを証明している。 笠原氏が多摩族を亡して以後、この地は朝廷の屯倉となり、国造の治所はこの地を離れて笠原直の本拠たる武蔵国埼玉郡笠原郷に移ったが、その後5,60年を経た推古記に再び異変が起こった。聖徳太子伝歴に「舎人物部連兄麻呂、賜姓武蔵国造」と見える。足立郡を治所とする物部一派の台頭がこの時に発したのである。(略)
 要するに、武蔵の足立郡にあって氷川神社を奉斎した国造家物部直、大伴直は、その前身が物部氏であり、无邪志国造初祖兄多毛比の胤を得て祖変して出雲系となった族であることは疑いがない。氷川社社家が物部氏であること、大伴直が物部系の大伴部に属しているらしいこと、伝歴の記事に物部連改め武蔵国造とあること等が、その明らかな証示である。
 武蔵国造の出雲系は、初め伊勢から信濃を経て笠原となり武蔵へ入って来たこと、当時武蔵には、多摩地方の无邪志族、足立地方及び入間地方を結ぶ胸刺族があり、笠原氏から発した出雲系は、まず多摩の无邪志族に伝わって其の族を祖変せしめるとともに、武蔵国造家を多摩に起こした。次に、多摩より発した系はさらに隣国上総下総の地方を芋づる式に祖変せしめて出雲系となし、その一環たる海上氏を経た系が、武蔵の足立に居する物部一派に来投して、これを祖変せしめたが、後、中央なる物部総領家の滅亡を契機に胸刺国造となって登場するに至ったもので、无邪志と胸刺は同訓であり、同系に貫かれた同一国造であるが、母族と居所を異にしたところから、各々記録を別個に保存していたため、分記されたものと考えられる。かかる観察は、当時の招婿婚および多祖現象に対する徹底的な理解を根底としなくては、不可能である。武蔵国造の如きは、全国造中きわめて興味ある多祖的国造であって、多くの異分子、多くの部曲を一系の下に抱容した経路は、紆余曲折して一種の系譜的偉観をなしている。


【感想】
 著者は、武蔵国造について多くを費やして述べている。それは、もともとあった多摩地方の无邪志族、足立地方・入間地方の胸刺族のところへ、伊勢から信濃を経て笠原となった出雲系が入り込み武蔵国造となる。次に、多摩より発した系が上総下総を祖変させて出雲系をなし、さらに海上氏を経た系が足立の物部一派に「来投」して、後、胸刺国造になる、といった経過を述べ、武蔵国造は「全国造中きわめて興味ある多祖的国造」だと評している。また、そのようなことは当時の招婿婚と多祖現象に対する徹底的な理解がなければわからないとも述べているが、私自身もまだ十分な理解がないので、書かれていることを読み取るだけで精一杯だった。それも正しく読解できたかは疑わしい。
(2020.1.6)