梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・31


【要点】
・如来は生あるものたちの素質のするどいものとにぶいもの、努力するものと怠けるものとを観察して、それぞれがたえうるところにしたがって、それぞれのために法を説き、みなを喜ばせ、快く立派な利を得させた。多くの生あるものたちは、如来の法を聞き終わってのち、現在の世界では安らかであり、未来の世には善い処に生まれて、道をもって楽を受け、法を聞くことも得られて、法を聞きおわってのち、多くの障害となるもいのから離れ、それぞれの力にまかせて、次第にさとって道に入ることができるのである。それは、あの大雲から、すべての草木・叢林および多くの薬草に雨が降ってきて、その種類や性質にしたがって、それぞれにふさわしいように満足して、うるおいを受け、それぞれ各々が生長することができるようなものである。
・如来の説法は、究極のところ、ただひとつのありかた、ただひとつの味なのである。それは、解脱のありかた、離のありかた、滅のありかたと三つのありかたに分かれているけれども、究極のところは、一切種智(一切のありのままを知る智で、仏のみがもつもの)にいたるものである。
・生あるものたちが、如来の法を聞き、それを受持し、あるいは読誦し、法が説くごとく修行しても、それによって得られた功徳は、生あるものたちは自覚せず、知らないのである。なぜかというと、ただ如来だけが、生あるものたちがどんなことを心に念じ、どんなことを思い、どんなことを修めているか、どんな法をもってどんな法を得るか、ということを全部知っているからである。生あるものたちが種々さまざまな段階にとどまっているのは、ただ如来だけが、ありのままにこれを見て、明らかにして、さしさわりがない。それはちょうど草木・叢林・薬草などは、自分自身では上・中・下の性質は知らないけれどども如来は、ひとつの法からそれぞれの分かれたものであると知るがごとくである。すなわち、解脱のありかた・離のありかた・滅のありかた・究極のニルヴァーナであって、結局は空(実体・とらわれのないこと)に帰着するのである。仏はこのことを充分に知りつくしているけれども、生あるものの心がいろいろな欲望をもつものを観察して、それを援護するので、直ちに、一切種智を説くことをしないのである。
・なんじたちは、カシャバよ、如来がそれぞれにふさわしいように説法するのを知って、それをよく信ずることができ、よく受持することができるということは、まれにしかないことなのである。なぜかというと、多くの仏・世尊がそれぞれにふさわしいように説く説法は、さとりがたく、また知りがたいからなのだ。」

【感想】
 ここまで(第五章の途中まで)読んできて、今、気がついた。「法華経」は大乗仏教典の「王者」といわれており、最高級の教えが説かれている。だから、私のような凡夫が字面をたどるだけで、その真理を理解することなど到底無理な話である。霊鷲山に集結した人々は、すべて仏道の修行者であり、斯道の専門家たちである。入門期の人たちは皆無であろう。だから、「法華経」は、いわば教師の指導書に該当する。それを幼稚園生や小学生が読んだところで、歯が立たない。同様に、私にとっても、仏の智慧を学ぶ「教科書」(入門書)が必要なのだ。幸いなことに、手元には「智恵のことば」(佐伯快勝著・淡交社・2008年)、「超訳・ブッダの言葉」(小池龍之介著編訳・まめ工房・2011年)がある。それらを読み、「第五章 薬草喩品」では「小」の草、「下」の木に相当する私なりの、「身の丈に応じた」養分を吸収してから、再度「法華経」を読むことにする。(2019.9.17)