梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・30

《第五章 薬草喩品》

【要点】
 そのとき、世尊はマハーカシャバおよび多くの大弟子につぎのように告げられた。
「よろしい、よろしい。カシャバよ、よく如来の真実の功徳を説いた。まことになんじのいうところのごとくである。(略)カシャバよ、必ず知らねばならぬ。如来はこの諸法の王であるから、もしも説くところがあれば、すべてみな、なにひとつとして虚しいものはない。(略)如来は、すべての諸法が帰し趣くところを観察して知り、またすべての生あるものの心の奥底のはたらきをも知り、それらに通達していて、障害がない。また多くの法を究め尽くして、最後まで明らかにし、多くの生あるものに、すべての智慧を示すのである。
 カシャバよ、たとえば大宇宙の世界の山と川・谿谷・土地に生ずるところの草木・叢林および多くの薬草は、種々さまざまであり、幾種類ものものがあり、名称も形態も各々異なっている。そのようなところへ密雲が一杯にひろがり、あまねく大宇宙全体におおい、一時に雨となって平等に降りそそぎ、その水の恩恵は、あまねく草木・叢林および多くの薬草の小根・小茎・小枝・小葉と、中根・中茎・中枝・中葉と、大根・大茎・大枝・大葉とをうるおし、多くの木々は、その上・中・下それぞれにしたがって、各々受けるところがちがっている。それでも一つの雲が降らした雨は、その植物の種類に応じて、それぞれを成長させることができ、それによって、花が開き、果が実るのである。このように、同一の場所に生じても、同一の雨がうるおすのではあるけれども、しかも多くの草木に、それぞれ受けとりかたに差別があるがごとくである。
 カシャバよ、必ず知らねばならない。如来の場合もまた、同様なのである。世界に出現することは、ちょうど大きな雲がおこるがごとくであり、また大音声をもって、世界の天・人・阿修羅にあまねく行きわたらせることは、かの大きな雲があまねく大宇宙の国土一杯を覆うがごとくである。大勢の集まりのなかにおいて、しかもこのことばをとなえる。『わたくしは、これ如来であり、聖者であり、完全無欠なブッダであり、明らかな智と実践とがそなわっており、行いが正しくて、世界のことを知っており、最高者であり、人間の調教師であり、天と人間との師であり、仏であり、世尊であるから、未だに向こう岸へ渡らないものを渡らせ、未だにさとらないものをさとらせ、未だに安らかでないものをやすらかにさせ、未だにニルヴァーナを得ていないものにはニルヴァーナを得させる。(略)なんじたち、天・人・阿修羅よ、みんな必ずここにやってきなさい。それらに法を聴かせるようにするためのゆえである』と。そこで、数えきれない千万億の種類の生あるものたちは、仏のところへやってきて、法を聴いた」


【感想】
 前章で、四人の高弟が語った「長者窮子喩」を聞いた釈迦牟尼仏は、高弟の一人・マハーカシャバに対して「よろしい、よろしい。よく如来の真実の功徳を説いた」と認め褒めた。さらに、あたらしく「薬草喩」という「たとえ話」を説き始める。仏教学者・ひろさちや氏は、その要点を「仏が説かれた教えは平等であり、雨のようなものだ。衆生にはさまざまな者がおり、それぞれが自分の性質に随って教えを受ける。それは小さな草、中くらいの草、大きな草を潤す雨の量がそれぞれ違うことのようだ」(『ひろさちやの感動するお経』より引用)と、まとめている。
 ここでは、弟子たちが譬えた「羊の車」「鹿の車」「牛の車」を、小さな草、中くらいの草、大きな草に置き換えて、それぞれが必要とする水の量は異なるが、そこから得られる養分は平等であるという譬えが、わかりやすく説明されていると思う、
 要するに、仏の教えは、人々(の容貌)が「千差万別」であるように、教え方も「千差万別」でなければならない、だから「教化の方法」が重要なのだ、ということを師匠(釈迦牟尼仏)が弟子たちに教えている、ということがよくわかった。
 しかし、私は高弟には遠く及ばない凡夫なので、その教えを実践することはできない。と思うことが、そもそも煩悩から抜けられない要因なのだろう。私は私なりに「身の丈に応じた」修行(修業)を重ねなければならない。
(2019.9.16)