梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・29

《第四章 信解品》
【解説】・8・《「法華経の智慧」(池田大作・聖教新聞社・2011年)より抜粋引用)》
《法華経は「仏法の醍醐味」》
須田晴夫:この「長者窮子の譬え」が、釈尊の五十年間の教説の次第を示していると見たのが、天台大師です。天台大師は、牛乳を精製して醍醐を作る過程に譬えて、「五味」という教判を示しています。これは「五時」の教判として有名です。一覧にしてみますと、次のとおりです。
●長者窮子の譬え       ■意味  ◎経説   △五味
●子を見つけて追わせる    ■擬宜 ◎華厳 △乳味
●屋敷で働くように誘う    ■誘引 ◎阿含 △酪味
●父子の信頼が強まる     ■弾呵 ◎方等 △生蘇味
●家業を管理させる      ■淘汰 ◎般若 △熟蘇味
●家業を正式に相続      ■開会 ◎法華 △醍醐味
遠藤孝紀:法華経は「仏法の醍醐味」ですね。(略)釈尊は初め自らの悟りの世界を、あらあら示しました(華厳)。しかし、二乗にはまったく分からなかった。そこで、釈尊は、人々の低い志に合わせて、低い目標を設定した小乗の教えである阿含経を説いた。次に、志が高い人々のために、大乗の諸経典を説いた。けれども、二乗たちは、小乗の教えに執着して、大乗の教えには見向きもしなかった。
斉藤克司:二乗たちは、そのことを回想して、“一日の給料をもらえただけで、たくさんもらえたとして、さらにもらおうとは思わなかったようなものである”と言っています。
池田大作:小欲知足は大切だが、正法に対しては貪欲であらねばならない。欲を消し去るのではない。何を欲するかが大事なのです。「煩悩即菩提」です。無上の悟り、菩提を求める欲は、即ち菩提となる。“自分はこの程度でいいのだ”というのは、謙虚に似て、じつは、生命の可能性を低く見る大慢なのです。
遠藤:二乗たちは、小乗の小法に執着して大乗に向かいませんでした。そこで、釈尊は、二乗を厳しく弾呵したのです。信解品で、四大声聞は「昔、釈尊は、菩薩の前で、声聞で小法に執着して求める者を非難されたことがあった。それは、じつには、大乗をもっておしえようとされたのでした」と振り返っています。「大乗」とは、唯一の真の大乗である法華経のことです。これが仏の真の「財産」です。


【感想】
 ここでは、「長者窮子の譬え」が、釈迦牟尼仏の五十年間の「布教活動」の流れを5段階で示している、という天台大師の解説が紹介されている。一は、釈迦牟尼仏が出家、修行を経て悟りを開いた直後、華厳経を説いたが、難解すぎて誰にも分からなかった。そこで、誰にでもわかる平易な教えにレベルダウンした。それが二の阿含経だ。人々は出家して修行し、「自分」で悟りを開く。それが小乗仏教である。しかし、それでは出家者の他は悟りを開けないことになるので、三の「誰でも平等」であるという教えになる。さらに四は、小乗仏教の教えを超える大乗仏教のエキスを集約した般若心経の教えになり、最後は五の法華経で終わる。そのプロセスが、父と息子の別れから再会、父の死とともに財産が息子に譲られるという「たとえ話」として示されている。
 要するに、仏教ははじめ「自分独り」で取り組み、自分のために行う修行からスタートするが、それで悟りを開けたとしても、それだけで終わりにしてはならない。もっと大切なことは、「他人のために」修行することだという教えに発展した、ということだろう。だから、小乗か、大乗かを(第三者的に)論争してもはじまらない。まず、自分の身の丈に応じたところから修行を始めなさい、ということか。そのことを理解したから、教団の最高幹部は、「自分たちの修行にも終わりはない。もっと高みを目指さなければ・・・」という気持ちを、師匠に伝えたかったのだろう、ということがよくわかった。