梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・28

《第四章 信解品》
【解説】・7・《「法華経の智慧」(池田大作・聖教新聞社・2011年)より抜粋引用)》
《四大声聞が目覚めを語る「長者窮子の譬え」》
斉藤克司:信解品は、二乗作仏が説かれた歓喜から開幕します。譬喩品(第三章)で、釈尊は、舎利弗が将来、「大宝厳」という時代に「離垢」という世界で「華光如来」という仏になるだろうと保証を与えました。これまで諸大乗経では、成仏できないと厳しく糾弾されていた二乗が、将来、必ず成仏できると初めて説かれたのです。この「未曾有のことに出会えた喜び」を語ったのが、信解品です。
須田晴夫:彼らは「僧の首」、すなわち釈尊の教団のリーダー、最高幹部でした。しかし「年は並びに朽邁せり」、もう年老いてしまった、と。また「自ら已に涅槃を得て、堪任する所無しと謂いて」、すでに自分たちは悟りを得ていて、もはや頑張ることはないと思っていた。そして「進んでアノクタラサンミャクサンボダイを求めず」、進んで仏の得た無上の悟りを求めようとしていなかった。 池田大作:立場がある、年功がある、経験がある。四大声聞はそこに安住してしまっていた。自分は長い間、修行をして、年老いた。それなりに悟りを得た。もう、これで十分だ。師匠の釈尊の悟りはたしかにすばらしい。けれども自分たちには、とうていおよびもつかない。だから、このままでいいんだ・・と。このような大幹部の無気力を打ち破ったのが、舎利弗への授記だったのです。一生涯、熱い求道心を燃やし続ける、それが法華経の教える人生です。
(略)
池田:「永遠向上」の心を教えているのです。「不退」の決意をうながしているのです。「進まざる」は「退転」です。仏法は、つねに向上です。前へ、前へと進むのです。「永遠成長」です。それでこそ「永遠青春」です。生命は三世永遠なのです。
(略)
斉藤克司:また、梵本にはこのような記述もあります。二乗たちは、自分は仏の無上の悟りを求めようとする心もないにもかかわらず、他の菩薩たちに対して「『この上なく完全な“さとり”を達成するよう努力せよ』と教え戒めた」と。
池田大作:自分がやってもいないのに、他人にだけ、やれ、やれ、と言う・・とんでもない慢心です。(略)法華経に至って、二乗たちは釈尊の叱咤・激励を全身全霊で受けとめた。そこで初めて、人々に'正法の声を聞かせる「真の声聞」として蘇生したのです。若返ったのです。(略)だれもが、この「生命」という無上の宝を平等に持っている。いちばん大切なものを「求めずして、おのずから得て」いるのです。それを自覚できるか、否か。それを最も深く自覚させるのが法華経なのです。(略)
遠藤孝紀:発憤した二乗たちは、感動のままに、自ら理解した法門を譬喩に託して語ります。それが有名な「長者窮子の譬え」です。


【感想】
・ここでは、「長者窮子の譬え」が、どのような人によって語られたか、について解説されている。それは、(年老いた)教団の最高幹部であった。彼らには立場があり、年功があり、経験もあるので、「それなりに」悟りを得たと思って、「もうこれで十分だ」と修行を怠っていたのだが、釈迦牟尼仏が舎利弗が将来、「華光如来」に成ることを保証する様子を見聞して「自分たちも如来になれるんだ、まだまだ老け込んではいけない、これからが大切な修行なのだ」ということに気づいた、ということである。その証に、仏の「たとえ話」への返礼として、自分たちも「たとえ話」を語り始めた、という経緯である。
 池田氏は、最高幹部が「それなりに悟りを得た」と述べているが、《それなりに》とはどのような意味だろうか。悟りにはいくつかの段階があり、まだ途中の段階にとどまっている、ということだろうか。それとも、自分でそう思っているだけで、まだ悟りを得ていない、ということだろうか。また「悟りを得た」か、否かは、自分で決めるものだろうか。それとも、師匠など他者が、「認めたり許したり」するものなのだろうか。そこらあたりが、私には判然としなかった。
(2019.9.13)