梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・27

《第四章 信解品》
【要点】
*ここでは、尊者のスプーティ、マハーカーティヤーヤナ、マハーカーシャバとマハーマウドガリヤーヤナが、世尊が舎利弗に(最高のさとりを受けるであろうとの)予言を授けたことに、喜び、おどりあがって、合掌し、世尊の顔をじっと見上げて申し上げた「たとえ話」が語られている。
*その「たとえ話」は「長者窮子の譬え」と呼ばれており、仏教学者・ひろさちや氏はその概要を以下のように紹介・解説している。


〈あるとき、貧しい時代に生き別れた子供が長者の家の前を通りかかりました。子供は落ちぶれ、貧乏人になっていましたが、長者はすぐにわが子だと気づきます。しかし、子供のほうは父だと気づきません。長者は人をやって子供を呼びに行かせます。ところが、子供は怖気づいて呼びかけに応じません。そこで長者は子供を家で雇うことにして、まず掃除の仕事につかせます。便所掃除から始めた子供は、徐々によい仕事につくようになり、ついには家を取りしきるまでになりました。すると長者は、国王や大臣らの前で「実はこれは私の子供だ」と宣言し、すべての財産を子供に譲りました。もしも最初から長者が「この家はお前のものだ」と言っても、子供は信用しなかったでしょう。ですから長者は、まず、真面目に働けば必ずよいことがあると子供に教えました。そうして子供の跡継ぎとしての適性を徐々に高めていき、最後に自分の子供だと認め、財産を譲ったのです。この話は、私たちには最初から大乗の教えはわからないだろうからと、まず一所懸命努力すれば必ずよいことがあるという小乗の教えを説きます。そして徐々に大乗の教えを理解できるようになり、最終的にはすべての教え、真実を受け継ぐことができた、ということを表しています。〉(『ひろさちやの感動するお経』・第3巻・法華経より引用)


【感想】
・この「たとえ話」を原文で読むと、まず尊者たちが今、釈迦牟尼仏の話を聞くまでは小乗の教えしか理解していなかったことを告白し、大乗の教えを理解できた証として、弟子の方から「たとえ話」を披露していることが分かる。また、子供は五十年前に《父を捨て
て》逃亡したこと、子供は窮乏し放浪しながら、たまたま生まれ故郷にさしかかり、父の居る家にさしかかったが、父があまりにも豪奢な暮らしをしているので、それが父だとは気づかなかった。父の方ではすぐに息子だと気づき、息子を呼びにやったが、息子は「捕らえられて殺されるのでは」と逃げ出してしまった。そこで父は、(子供の現状に合わせて)みすぼらしい服装の使用人を派遣し、息子の恐怖心を取り除く工夫をした。ここでも強調されていることは「教化の方法」ということである。
 では、この「たとえ話」から、私自身はどんなことを考えたか。仏教は、初期においては、まず出家し、自力で解脱・成仏することをめざしたが、それだけで終わらせてはいけない。大切なことは、まず修行によって自分を高め、次に、その力によって他人を救うことであり、同時に他人も高めることである。だから、小乗は自分のため、大乗は他人のための教えであり、双方とも必要不可欠である。父が大金持ちだという譬えは、「心の豊かさ」を表しているに過ぎない。そうした方が、人々には分かりやすいからであろう。また、子供が父の屋敷の便所掃除から始めたという譬えも、「他人のために働く」ことの大切さを表していると思った。
 この「たとえ話」は、弟子の創作であり、弟子が釈迦牟尼仏の教示によって、如来にまで高まりつつあることがよくわかった。
(2019.9.12)