梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「法華経 現代語訳 全」(三枝充悳・第三文明社・1978年)精読・26

《第3章 譬喩品》
【解説】・6・《「法華経の智慧」(池田大作・聖教新聞社・2011年)より抜粋引用)》
《譬喩即法体》
須田晴夫:法華経に説かれる譬喩には、もう一つ、大きな特徴があるように思われます。それは、釈尊が弟子に法華経の深遠な法理を何とか伝えようとしただけでなく、弟子たちもまた、釈尊の説法を理解した証として譬喩を用いて応えている点です。(略)
斉藤克司:たとえば、「三車火宅の譬え」を領解した四大声聞が、信解品で自分たちの理解を「長者窮子の譬え」で示します。(略)
池田大作:仏の巧みな譬えを聞いて、「ああ、よく分かった」というだけでは、まだ十分な理解ではない。本当に深い会得は、全人格的な変革をうながすのです。いわば、「分かる」ことは「変わる」ことなのです。(略)また、釈尊が譬喩を用いたのは、あくまでも一切衆生のためです。一切衆生の仏道を開くためです。その譬喩の心、譬喩にこめられた
仏の心が分かったがゆえに、弟子たちも、譬喩をもって応えたのではないだろうか。「分かった」という喜びが、「伝えずにはおられない」という心を弟子たちにもたらしたのです。
(略)
池田:「譬喩とは、ある意味で、言葉の組み合わせ方を日常とは違う仕方に変えることであり、伝えたい内容にぴったりの適切な表現を選ぶことでもあるね。その時、ありふれた、分かりやすい言葉が日常の意味を超えて、言葉の海面下に沈んでいた心と心、人格と人格の全体を結びつける力を持つのです。それが本当の意味の「分かる」とか「伝わる」ということです。そこに譬喩の力もある。
遠藤孝紀:私自身の体験で恐縮ですが、かつて失意のどん底にあった時、先輩から“大変だったね”と言われた。たった一言に心からの励ましを感じ、胸をゆさぶられる思いをしたことがありました。今思うと、相手を思う一念に、人は感動し、心が動かされるのですね。
池田:そうです。大聖人も「言と云うは心の思いを響かして声を顕すえを云うなり」(御書)と仰せられている。同じことを言っても、言う人の心の深さで、まったく力は違ってくる。
(略)
須田:かつて、法華経には法理に関する部分が少なく、仏を讃歎する言葉や比喩ばかりが多い、と論難する者(*富永仲基、平田篤胤)がいました。
(略)
池田:大聖人も「二十八品は正しきことはわずかなり讃むる言こそ多く候へ」(御書)と、一見すると同じ趣旨に見えることを仰せです。しかし、結論はまったく違います。すなわち「法華経の功徳はほむれば弥功徳まさる」(御書)・・仏が讃歎しているのだから、われわれも大いに讃歎すれば、功徳はいよいよまさるのだ、と。仏と同じ心に立とう、ということです。この姿勢、つまり信がなければ、仏の心を顕そうとした法華経は永久にわかりません。(略)
(略)
斉藤:私たちも、ともすると、現実生活を離れた理論のなかに仏法の深い真髄があるかのように錯覚しがちですが、足下の現実こそが仏法であるということを、法華経の譬喩は教えてくれている思います。
池田:生活のうえに現れる信心の実証は、妙法の功力を説明する「譬喩」です。現実生活の実証は、妙法の真理を雄弁に物語っているのです。四条金吾、池上兄弟など、大聖人の門下が苦難を乗り越えた実証の姿は、同じ問題に直面した私たちにとっても大きな激励となっています。大聖人は、心を合わせて迫害と戦った池上兄弟に対して「未来までの・もにがたり・なにごとか・これにすぎ候べき」(御書)と賞賛されている。今、兄弟の物語は世界で語り継がれている。この原理は、私たちにとっても同じです。(略)牧口先生は、体験発表を中心とする座談会運動を創られた。難解な「理論」を表にして説くのではなく、分かりやすい「体験」を表として、妙法を人々に教えられた。(略)体験中心の座談会は現代の「譬喩品」であり、現代の「七喩」であり「無量の譬喩」です。慈悲と智慧の結晶である「譬喩」・・法華経と同じ心に立って、創価学会は“布教革命”を巻き起こしたのです。法華経の譬喩の心は、創価学会の実践のなかに生きています。私たちは、末法万年にわたって語り継がれるであろう「法華経の広宣流布」の物語を日々、馥郁とつづっているのです。
【感想】
・解説のタイトルに「譬喩即法体」とある。譬喩イコール法体という意味だが、「法体(法体)とは何か。法の本体、宇宙万物の実体のことである。つまり、譬喩こそが「法の本体」を表すことができる、ということだろうか。真理を難解な言葉で説明しても分からないが、日常の平易な言葉で「たとえ話」をすれば、少なくとも、「たとえ話」の話そのものは分かる。その話を通して、その話に隠れている「真理」を見つけ出すことができるかどうか。
 ここでは、仏の譬喩を通して理解した説法に対して、弟子もまた譬喩で応じることができるようになる、と述べられている。それが法華経の譬喩の特徴だということだ。その具体例が、次章の「信解品」に挙げられているということなので、先を読んで確かめたい。
 興味深かったのは、江戸時代後期の国学者であり神道家でもある平田篤胤が、法華経を「譬喩が多すぎる」と非難したことに対して、池田大作氏が「仏と同じ心に立たなければ(信がなければ)、法華経は永久に分からない」と述べた点である。私も「三車火宅の譬え」で、父が子どもたちに等しく大白牛車を与えたことは、仏が衆生に法華経を説いたというところまでは分かったが、では法華経で説かれている仏の智慧とはどのようなものなのか分からなかった。日蓮聖人も「二十八品は正(まさし)き事はわずかなり」と述べているそうだが、その《正き事》は法華経のどこを読めばわかるのだろうか。今までのところでは見つけることができなかった。ともかくも、次章「信解品」までは読み進めることにする。
(2019.9.11)